今までずっと・・・4時間くらいかけて弟の宿題書いてました。。。


夏目漱石「こころ」の読書感想文。


なんか悔しいのでこっちにものせてみようかとw



以下、あやこの感想文です(笑)


こころを読んで


 この本を読んだ中で一番印象に残ったのは、「先生」の遺書の部分でした。

病で両親を亡くした先生は、叔父に支援してもらいながら生活をしていきます。しかしその叔父は、先生の両親の残した財産に目がくらみ、財産を横領してしまうのです。結局「先生」に残された財産はわずかなものでした。しかし、その残されたわずかな財産さえも先生が遺産のことについて言い出さなければ叔父のものとなっていたことでしょう。いつの時代でも、お金というものは人の心を惑わすものなのだ、と思いました。現在でも、遺産の相続問題や、税金の横領などがよくニュースで報道されています。そのもととなるのはやはりお金なのであって、結局人間は誰も自分さえ良ければ、自分が儲かれば他の人はどうでもいい、というエゴイズムを持っているのではないでしょうか。

 

 さらに、遺書の後半では「K」という先生の親友の青年と「お嬢さん」、さらに「先生」の三角関係がおきたことが明らかにされています。はじめはぎこちなかったKとお嬢さんの間が、接近していくのにきづき苛立つ先生は、ある言葉をKになげかけます。

『精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。』

 こんなことをいきなり親友から言われたら、どうでしょうか。「別にどうだっていいや」、と思うでしょうか。逆にKのように「僕は馬鹿だ。」と考えるでしょうか。

 僕はそのどれでもなく、「精神的向上心」それはなにか、というところから考えることにしました。まず、辞書をひいて調べてみました。

「精神」には人間の心、心の働き、心の本質という意味がありました。

「向上心」には自分の能力、性質などをより優れたものにしようとする心、という意味がありました。

 よって、「精神的向上心」とは自分の心の本質をより優れたものにしようとする心のことになります。これは、勉学についてのこととも言えるし、生活全般についてのことともとれます。では、先生がKに言い放ったときに使われた「精神的向上心」とは、いったい何のことなのでしょうか。

 

 本文にはKはお寺に生まれた子供だったので、精進という言葉が好きだった、と書いてあります。精進、という言葉は精神的向上心、とよく似ています。いつも精進するよう心がけていたはずのKは、親友の先生にこんなことを言われたらそれはそれは傷つくでしょう。さらに先生は「Kの前に横たわる恋の行手を塞ごうとした」や、「単なる利己心の発現」、とも言っています。今までKと一緒にいて、普通に考えれば、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」などとは言わないはずだと思います。先生はKとお嬢さんの関係に焦り、どうにかKにダメージを与えられないかと考えてこの言葉を言ってしまったんだと思います。

 そして一週間後。先生は、さらに手を打つのです。Kもお嬢さんもいないときを狙って、突然に奥さんへ「お嬢さんを下さい」、と。話はまとまり、先生としてはこれで一安心、といったところになります。

 これもやはり、エゴイズムに相当すると思います。お嬢さんに直接言わずに奥さんを通しての婚約、Kを傷つけてまで勝ち取りたかったお嬢さん。人間のエゴ以外の何物でもありません。エゴ、それは自分への愛。自分可愛さに、自分を大切にするあまりに周りが見えなくなってしまいます。かといってなくすことは難しいし、もしなくしたとしたらそれは相当の理性を持っているかすべてにおいてやる気のないものになってしまうのではないでしょうか。

 

 その後も先生はKには婚約のことはなにも言わず、ただただすごしていました。自分で自分を説明するのがいやだ、と先生は言っていますが、このときに少しでも話しておけば、Kは死なずにすんだのだろうと思います。

 

 Kは、先生が婚約してから三日後に自殺をしました。お嬢さんに対する失恋、ということより何より、Kを自殺へと追い込んだのは先生のエゴ、だったのではないかと思います。Kにおいての先生は、唯一無二の理解者であり、親友でした。その先生からの裏切りは、どんなにつらいことだったでしょう。Kは愛する人を失い、親友からも裏切られ、奈落の底まで落ちていったんだと思います。そんなKには、残された道はひとつしかなかったのでしょう。

 この「こころ」という小説における夏目漱石は、人間のエゴイズムのこと、そしてエゴイズムからは逃げられない、ということを書きたかったのではないでしょうか。






あー・・・・つ か れ た・・・・・・・orz



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