このブログにお立ち寄りいただきましてありがとうございます。


行政書士石下貴大事務所代表の石下貴大(いしげ たかひろ)です。


私はブログもリアルでも
人とのご縁を大事にさせていただいております。


よく相手の名を聞く前に自分の名を名乗れといいます。


相手のことを知るには
名を名乗るだけでなく、自分のことを少しでも知っていただくことが
大切なのではないかと思い、
改めて自分のプロフィールを書こうと思いました。


少々長くはなりますがお読みいただき、
私という人間を知っていただければ嬉しく思います。


【生い立ち】
1978年10月15日 
栃木県塩谷郡塩谷町で床屋、美容師の両親の元に3人兄妹の長男として生まれました。
塩谷町というのは、栃木県の観光名所の那須、鬼怒川の中間くらいの
山と川に囲まれ自然豊かな土地です。


環境系行政書士への道~「あきらめたらそこで試合終了ですよ」

(家の近くにある尚仁沢湧水です)

というか自然しかありませんで
夏になるとカエルがうるさくて寝苦しいくらいです(笑)


小学校はもちろん地元の小学校
3年生からサッカーを始めました。


6年生になったとき、
急に親から私立の中学を受けるように言われます。


とはいっても田舎から出たことのない私にとって
私立を受験というのは全く意味のわからないことでした。


なんとなく受けた
それに受かると友達と違う中学に行くということすら
本気で知らなかったのです。


しかし私の人生でも一つ目の転機がこの時訪れました。


私は前述の通り、受験の意味も理解せず
ただ試験を受けているような感じでした。


合格発表の日だって先生に呼ばれてやっと知ったくらい。
先生から伝えられたのは当然「不合格」


でもはっきりいって何とも思いませんでした。
だって受験の意味がわかっていないんだから。


いつも通り友達と遅くまでサッカーをし
いつも通りの帰り道を友達とふざけながら歩き家に帰ると
いつもとひとつだけ違うことがありました。


それはいつだって帰ると真っ先に玄関で迎えてくれる
おばあちゃんの姿がないこと。


回覧板でもまわしているのかな?
とりあえず家の中を捜すと
家の一番奥にある仏壇の前にいます。


「おばあちゃん、ただいま」
そう声をかけようとして私は黙りました。


なぜならおばあちゃんが泣いているのです。


おばあちゃんは忙しい両親に代わり
小さいときからずっと面倒を見てくれました。


生まれた時などお店でシャンプーをしている時も
背中におぶってくれたほどです。


絶対に泣き言を言わず
いつも優しい大好きなおばあちゃん。


そんなおばあちゃんが泣いているのです。


仏壇の前で、
不合格だった僕が可哀そうだと声に出して泣いているのです。


小学生ながらに体中に電流が走ったようでした。
自分のせいで大好きなおばあちゃんが泣いている・・・


自分が頑張らないと、大好きな人が悲しむ
大好きな人を悲しませてはいけない


それから自分の中で何かが変わりました。


【中学時代】
合格発表のときには不合格といわれましたが、
次の日呼び出されて補欠で合格したと先生に言われました。


まさに奇跡。


そして通うことになったのが
作新学院中等部
作新というのは幼稚園から4大まである超マンモス校
木造2階建ての小学校とはだいぶ違う施設でした(笑)


しかも家からバスで1時間半
もちろん1時間に一本くらいしかありません。


無遅刻無欠席の皆勤賞をとれたのは
その後の自信になりました!


部活はサッカー部がないので
クラブチームでサッカーは続けましたが、
学校でも何か部活でも運動をしたくて
バスケ部に入り、一応サッカーと同じ点取り屋に。


なぜバスケ部かといえばもちろんこの影響です
スラムダンク (31) (ジャンプ・コミックス)/井上 雄彦

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サッカー部がなかったのは最初驚きましたが
そのおかげでこの漫画と
私が好きな言葉でブログの副題にもさせていただいている
「あきらめたら試合終了ですよ」に出会えました。


補欠合格で入ったこと
通学に1時間半かかっていたこともあり
本当にビリからのスタートでしたが、(最初のテストは153人中150番)
自分が頑張らないと大切な人を悲しませる
頑張れば大切な人が喜んでくれる


中学受験のこの経験から
ちょっとは頑張りを見せ、
ビリから少しずつ這い上がり、3年時には半分より前のほうに。


6時のバスに乗り、20時過ぎに帰ってくる生活でしたが、
いつも私より早く起きて準備をしてくれ、
帰ってくるのを待って一緒にご飯を食べてくれるおばあちゃんに
成績が上がるのを伝えて喜んでくれるのが何よりうれしかった。


高校受験が近づいてきた14歳の夏
あまりに移動時間に時間がかかるとのことで、
宇都宮のおばさんが引っ越すというので取り壊すまでの
半年、14歳にして半分一人暮らしをスタート。


ご飯はおばさんが新居から作りに来てくれましたが、
確かに学校には近くなったとはいえやっぱりさびしかったです。


でも、中学受験の経験があるので
ここで頑張って結果出さないと心配を掛けてしまう、悲しませてしまう
それだけはだめだと寂しさや弱音を外には出さず
部活引退後は受験に打ち込みました。


このあたりからポーカーフェイスになった気がします。


しかし
ここでも人生に大きな壁が立ちふさがります。


いつも忙しく働いていた母が
ガンを宣告されてしまったのです。


母は山と川しかなく、人口だって1万人くらいの
へんぴな場所でお店をやっているにも関わらず
美容の世界大会に出場してしまうくらいの人でした。


週に一度の休みはほとんど東京で研修
毎日朝から晩まで働き、一緒に入れる時間は短くさびしかったですが
腕一本で勝負し、
きれいになって喜んでもらうと腕を磨き続け、
そんな母のもとへ遠くからも人が来ることが
誇らしく、自慢の母でした。


そんな母がいきなりのガンの宣告・・・


目の前が真っ暗になりました。
飛んで帰りたくなりました。


でも、ある日病院にお見舞いに行ったとき
母はこう言いました
「お母さんは病気に勝つから、受験に勝ちなさい」


さびしくても
心配でも
自分が受かれば病気も良くなるはず、
そしてそれを母は望んでいる
もうやるしかありません。


頑張った分きっと良くなる
いつも強い母なら大丈夫
その思いだけで受験にのぞみ
なんとか栃木県で一番といわれる宇都宮高校に合格しました。


合格発表を見に行った後
その足で近くにあるガンセンターに行き報告したときの
笑顔は忘れることができません。


そして母は手術を終え退院しました。
リハビリをしていく中で
すぐに仕事にも復帰。


プロというものに対する意識をもったのは
間違いなくこの母のおかげです。


【高校時代】
高校はさらに実家から遠く、
おばさんの家も取り壊されてしまったので
宇都宮の寮にて一人暮らしとなりました。


14で親元を離れ
15で本格的に一人暮らしがスタート。
この時から今までずっと離れたままです。


高校時代は勉強もサッカーも世界の広さを痛感した時期でした。
勉強はついていけない、頑張っても順位がなかなか上がらない
サッカーは推薦で入ってきた人が同学年に10人もいる。
各中学のキャプテンも8人もいました。
中学時代トップクラスだった人が集まってきている。


今までみたいにある程度の努力では通用しない。
徹底的にやらないと!
一人暮らしをさせてもらっているのに
親に心配はかけられない、情けない姿は見せられない


サッカーでは4軍からスタート、先生に顔を覚えてすらもらえない状況
グラウンドも1,2軍とは別。
チャンスは先生も見る練習試合だけ。


ここでなんとか結果を出し、試合の翌日から2軍へ入れ替え
かわりに2年生が落ちていく
実力世界の厳しさを身をもって知った時期でした。


中学時代の実績が何もない分、実力も劣る分
人よりやるしかなかった。


朝連して、昼は筋トレ、練習後も走りこみ
自分よりうまい人はみんな控えの人より練習している
それよりやらなければ差は広まるばかり


でも諦めたくなかった


なんとかちょっとずつ試合に出れるようになり
新人戦3位、そして関東大会の県予選では優勝し
関東大会を経験。

環境系行政書士への道~「あきらめたらそこで試合終了ですよ」


たまに家に帰ると、
店のお客さんにうれしそうに父や母が
大会の結果などを話しているのが
照れる半面とてもうれしかった。


本気で物事に取り組むと
結果につながる
達成感ってすごい充実感となる
諦めたら試合終了


本気でサッカーをする中で
本当にたくさんのことを学びました。
そして一緒に切磋琢磨する仲間もできました。


最後の大会も終わり
いよいよ本格的な受験シーズンに突入する時
またしても思いもかけない人生の壁が立ちふさがりました。


第2編に続く・・・