「東銀座三原橋口青春篇」第1回 | デザインとは水のようなもの

「東銀座三原橋口青春篇」第1回

 私が、銀座の某有名広告制作会社に就職したのは、今考えてみても不思議この上ないわけである。
何で私みたいな「ぽん子」ちゃんがあの会社に入ることができたのかと、誰もが不思議におもっていた。誰が驚こうか、一番驚いているのは私自身であった。
 当時私は九州の美術大学でポップ書きのアルバイトに精を出しつつ、漠然と卒業時には「就職しなくては」と考えているような大学生だった。
 大学2年から「東京にしかデザイン会社はないけん~。(ほんとうはそんなことはないのだけれど)まず、東京にいってみらんば、わからんけん♪」ということで、親を説得し、大学2年の春休みのバイトを「新幹線の車内販売」に決めた。
 今にして思えばかなり無謀だったと思う。一人娘の世間知らずと笑われてもしょうがない。
私としては「タダ」で東京に行く口実を手に入れたのであるが、泉岳寺の仮眠所での連帯生活までは計算に入っていなかった。
 そのころ、新幹線のなかのレストランサービスを受け持っていたN食堂のアルバイトの日給が、片道4.000円だった。現在の物価指数に換算しても割のいいアルバイトとは言えない。
 職種は博多から東京までおみやげを売る仕事である。同じ大学のゆかりちゃんと参加した。
のちに、友人はいっていたのだが「あんな大変な仕事、もう絶対やりたくない!っておもった~」といっていたが、その時のは私の方はというとまんざらでもなかった。
やっぱり怖いもの知らずであった。この性格はこのあとの私の人生に、大きく影響してくる訳で、性分というのは変わらないという顕著な例だとおもうのである。

 アルバイト中にはいろんなお客さんに遭遇した。この頃から人間観察の才能が開花しだした様な気がする。
 礼儀正しくグリーン車を借り上げている例の組織系の方々、強烈な東北なまりの方言のおばあちゃん。何をいっているのかわからなかったこと、車内販売員をカツアゲして脅迫しようとする変なお客さん、ウナギを初めてたべるというイギリス人、などなど本当にいろいろな人をこの時始めてみたのだ。

 九州という島国で育った私は、その出来事が、なんでも新鮮にうつり、毎日がどきどきでワクワクしていた。仕事ははっきり言ってキツかったのだが、そのころの私にしてみると苦にはならなかった。

 最初にみた東京は薄曇りの東京の空だった。決してきれいな空ではなかった。そして降り立ったところは「東京駅地下倉庫群」だった。
 あの東京駅の下には、驚くばかりの広い空間があり、そこには、郵便、食品とありとあらゆる資材が地方に向けて発着する倉庫になっていた。
 新幹線のアルバイトでよい体験できたことといえば、新幹線の運転席に立ったことがある。
 これは今になっては時効だが、或る古株の販売員さんが、私たちにこっそり見せてあげてほしいと車掌さんにお願いしてくれたのである。後ろからではあったが実際運転席のすぐ後ろからみる一直線にのびる線路に感動した。これからの自分の進路を考えている私にはこれもどきどきの瞬間だった。
 紹介してくれた古株の販売員さんは売り物のビールを仕事中によく飲んでいた。
 「バイトさんはまじめに働け。」と販売の先輩から檄を飛ばされていた私たちであったが、この先輩には失笑するしかなかった。大阪の人だったと思う。
 車窓の風景と昼間からビールを飲む先輩は、いまでも忘れられない。