ワルツ
 90年、ハンブルクで録音されたフランスのショパン。ルイサダのワルツ集です。グラモフォンのピアノ部門。ポリー二、ツィマーマン、アルゲリッチなどを捉える一方、ウゴルスキやルイサダといった人も並ぶ。ポゴレリチを大きくしたのもグラモフォンでした。吉田秀和氏のディスク評にショパンが並ぶことは必ずしも多くはなかったのですが、ポリーニの練習曲集、アシュケナージの夜想曲、ツィマーマンの弾き振りによるピアノ協奏曲といった記憶に残るディスクの中、ルイサダという個性ある演奏がマズルカ、ワルツと二つが並びます。『ショパンに関する覚え書き』の中、「私はショパンの音楽についても、あんまりよくは知らないのである。こういうと、何か奇をてらっているように聞こえるのではないか心配だ。それに私のような職業をもっていて、ショパンをよく知らないというのは、自分でも実に奇妙なことだと思う」。そういった有名であるのに、心をとらえない音楽家として、もう一人チャイコフスキーを挙げていました。『世界のピアニスト』の中では、ヨーゼフ・ホフマン、コルトー、ルービンシュタイン、こと「ワルツ集」に関してはリパッティも触れられる。そのショパンの熱意には欠けているものの「充分にロマンティックでありながら、やたらとルパートがなく、またダイナミックの誇張がないのが、私には極めて心地よい」。これは、論評という職業、ショパンを聴くことがある種の仕事であり、食傷気味になっている人の境地です。ルイサダの「ワルツ集」はリパッティの古典的な端正の佇まいとは対照的な演奏でした。録音の優秀はありますが、個性で紡いでいくタイプのものです。  
 吉田評では「実は、何の気なしに聴いたのだが、おもしろかった。いかにも新鮮なのである。新しい風を感じたというか、新しい息吹を感じたというか」。以下、「ワルツ集」がサロンの音楽であるという出自に触れ、ルービンシュタインの華やかさや、アシュケナージについても触れられます。音楽をただ面白いという見地からは語らない。吉田評は、その新鮮さの理由を詳述していくわけです。「マズルカ」や「ポロネーズ」といったロマンが紡いできた民族性の発露という事象に対し、「ワルツ集」からはポーランド出自の民族性といったものはあまり聴かれません。むしろ、フランスに出て、当時のヨーロッパの空気とサロンで醸成された音楽を捉えています。第5番変イ長調のワルツ「実にいろんな表情の音が、歌が、フレーズが、リズムが、ダイナミックが展開され、その結果、かつてこの曲で聴いたことのない『心』が響いてくる。演奏のクライマックスが到来するのは後半の長いコーダに入ってからであることは、いうまでもない。ここは本当にすごい。うまいこともうまいが、大切なのはそういうこではなく《ワルツ》が本当に充実した劇を胚んだ詩になっている点である」。フランスのショパンが感性と詩の音楽。それは神々しいものというよりルイサダで聴くと人間的なものとして表現されているのです。

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 ショパン: ワルツ 第5番 変イ長調 作品42 ルイサダ 1990
 ショパン: ワルツ 第1番 《華麗なる大円舞曲》 変ホ長調 作品18 ルイサダ 1990