
モーツァルトの「フィガロの結婚」。クレンペラー盤はその異例な遅いテンポで物議を醸します。これまで、採り上げた「魔笛」では重量級のキャストに、セリフを一切排除したもの。「ドン・ジョヴァンニ」もギャヴロフの外題役に実存が息衝くやはり重量級なものでした。あとは「コシ・ファン・トゥッテ」が残りますが、これはいずれ。先だって、63年のベームの「フィデリオ」を挙げましたが、マティスのスザンナによる「フィガロの結婚」の公演も伝説的なものであり、また68年のスタジオ盤の手堅さもあらゆる面でバランスのとれた定評のあるもの。E.クライバーのウィーン風、ジュリーニや、カラヤンのセッコなしの50年代、新しいところではアバドや、古楽器のものが幾つか。これらは順番を付けることなしに、どれもが「フィガロの結婚」というイメージを踏襲しています。登場人物が多く、めまぐるしく展開するオペラは、配役がたとえ端役にいたるまで行き届いていても、難しい。たとえばアバド盤のバルトリのケルビーノがいいといっても、あの盤のモダンでありながら劇場風の機知があってこそ生きているのです。クレンペラーのテンポの遅さというところでは、この晩生の巨匠特有のものでしたが、若い頃は前衛の旗手であり、テンポも早くせかせかとしたものでした。普通の器楽奏者にとって70歳を超えることは、引退、あるいは教育者としての後進の指導という時期ですが、レッグがフィルハーモニア管の首席指揮者に任命したのは55年。65歳のころはじめての録音は68歳で、真価を発揮しはじめた60年代には75歳を超えていました。幾つもの大病、また音楽以外の異例な逸話がその評伝を彩ります。また極端な発言は物議も醸しました。音楽は重く、即物的にあるいはリアルに運ばれる。それでいて、エピソードといえば、若き日のハンブルク時代。エリザベート・シューマンとの駆け落ち(彼女の夫も指揮者であった)、公然と起こるヤジに「俺の演奏を聴きたくないヤツは外へ出ろ」。これは代表的なものですが、この種の逸話が実に多く、音楽の表面上の怜悧の奥、息衝く情熱的なものという相反するものがあったのかもしれません。その遅いテンポ、たとえばマーラーの交響曲第7番、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」、そして「フィガロ」はもはや語りぐさです。ただし、前二つの盤が高い評価を得ているのに対し、「フィガロ」の評は落ち着かない。これを何度も採り上げているのが宇野功芳氏「指揮者の深い呼吸によって、今まで気づかなかった美しい景色が窓の外を通りすぎてゆく。乗っている客車はステンレス製ではなく高級な木製で芸術的な香りが高い。細部のニュアンスの緻密さはすばらしく、リズムや音色の柔軟なデリカシーは他のすべてのCDを凌駕する。この盤を推薦するのがぼくだけというのは、レコード界の七不思議の一つではないだろうか」。
ル・コルビュジェのモジュールではありませんが、基準となるデザインは人間の身体の特徴を反映します。有名な巨匠たちが一同に写った一枚。クレンペラーの体躯は巨大。反対にトスカニーニは明らかに小男です。テンポの設定が心拍や、歩幅などが反映しているとしたら、キビキビとしたトスカニーニの律動などはうなずけるところがあります。岩城宏之氏がウィーンでクナッパーツブッシュばりに遅いテンポで演奏した際、クナを知る楽員に「彼は病を抱え、あのテンポが精一杯だったのだ。お前はまだ若いし、そのテンポで演奏するのは間違っている」といった旨の話をされたという逸話。遅いということではクナッパーツブッシュ、晩年のチェリビダッケ、ジュリーニなど皆遅かった。そして、その遅さは共通でも、音楽はまるで違う。それと向き合う聴き手にとってテンポや節回しの好みは肌合いといってもいいかもしれません。クレンペラーの「フィガロの結婚」での遅いテンポはこれまでの駆け抜けるようなテンポにモーツァルトの「疾走する悲しみ」を引いた小林秀雄や、最後が伯爵の許しを求める言葉に収束される一日のどたばた劇といったものを期待するのは間違い。すでに、晩年の、死や、重い怨念のたちこめた「ドン・ジョヴァンニ」に続くロマンの流れとして、捉えれば新たな光景が見えてくるかもしれません。この盤が宇野氏以外に話題にのぼらないのはある意味、当然ですが、こうした異例なものが録音され、記録して残したEMIの英断も素晴らしい。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」ヴォルテールの警句ではありませんが、演奏の主義主張というものがたとえ少数の支持者であっても守られていい。それは評者も同じで、思ったことをそのまま書いている正直さが一番現れているのも宇野評です。この評によって盤にふれ、この盤の異例な遅さに感じるものがある人もいるはず。ここはレリ・グリストのスザンナが聴けます。たとえば66年のベームの映像、そのスタンダードでチャーミングな姿に比し、クレンペラー盤がいかに異例なものであったか。しかし、肌合いがあう人にとってはその相対時間は短く、あの美しさがいつまでも続くという感覚で捉えられるのです。宇野氏はマーラーの4番のグリストの歌唱も絶賛していました。
追記:クナのエピソードはテンポではなく、指揮の身振りであったとご指摘いただきました。出典を失念し未確認ですが、記憶違いだったようです。
再追記:上掲は頸椎後縦靭帯骨化症の闘病記『九段坂から』で確認できました。
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序曲
若きキリ・テ・カナワが二人の少女の一人
ベームのザルツブルク グリストのスザンナのチャーミング