んじゃ焼きを食べた。月島で。豊洲で映画を見た後に、有楽町で飯を喰おうと思ったのだが、有楽町線に揺られている間に気が変わり月島に降り立った。月島に来るのは二度目だった。一度目は四年前の、文学散歩の時だった。

 文学散歩というものがある、という記事を随分前に書いた。それは確か、演習で鷗外の『雁』をやった時、本郷三丁目から不忍池まで歩いた時に書いたものだと思う。赤門をくぐり東大の三四郎池でアルコールを飲み、不忍池を回って根津まで歩いた。それとほぼ同様のコースを、翌年と翌々年も歩いた。ゼミの文学散歩で。

 一番最初の文学散歩は島百花園という横浜市金沢区在住の僕にはほとんど拷問に近いくらい遠く離れた場所に集合した。そこから北千住まで出てどの電車に乗ったのかは忘れたがとにかく隅田川沿いをぶらりとして築地から聖路加、佃島やら勝鬨橋やらを通って月島まで行った。よく晴れた気持ちのいい春の日で、陽光をちろちろと返す隅田川の水面は見ていてとても気持ちが良かった。そうしてミカサ会館ではじめての専攻懇親会があり、そこでしこたまワインを飲んだ僕は、その後のいつ果てるとも知れぬ自己紹介の連鎖に、危うく膀胱が破裂しかけたのである。

 そういえば、日本で唯一の景評論家である丸々氏のオフィスは勝鬨橋のたもとにある。もっといえば、昨年の衆議院選挙の際、アルバイトが深夜まで及び、研修用宿舎に止まらせてもらった。あれは確か月島にあるのだった。ハイランクなビジネスホテル然とした室内は、たかだか数時間ぽっち、眠るだけに泊まるには非常に勿体無い。バイト史上、あそこに泊まったのは僕だけである。なにそれ。

 そんな訳で久しぶりにもんじゃ焼きを喰ったのだ。アレは何度か作ったことがあるけれど、なかなか上手いようにいかないものである。でもなんとなく、結界を決壊させないコツみたようなものは掴んだ。そんなことはどうでもよくて、『のエデン 劇場版2 パラダイスロスト』を見てきたのだ、先述した豊洲で。どうにもあまり評判は芳しくなく、実際に見た感想も、「やっちまったな」くらいのものである。期待していただけに残念であった。咲スペシャルですら無かった。
 ネタバレにはならないので何かしら述べておく。伏線回収とか、物語のテーマとか、そういうもの以前に、映画としてどうなのよ的な思いは拭いきれない。派手なシーンがあるわけでもなく、淡々とばら撒いた謎を回収していくだけ。その回収の仕方も、あまり気が利いているとは思えない。
 世代間対立の限界を超えた、その先に何があるのかってことだったのではないのだろうか。ニートVS既得権益に縋ってアガリを決め込んだ連中(平たく言えば団塊世代)という、あまりにも露骨過ぎる現代的テーマに真っ向から挑んだのだと思う。それはとても面白かった。「君と僕」のこじんまりした物語に安住せず、かといって安易な大きな物語を捏造してそれに依存するわけでもなく、今の物語の姿で、リアルをどう描くかってことに挑戦したのではなかったのだろうか。でもそれはテレビ版でもやっていたのだ。その先が見たいのだ。結局、映画版でもテレビ版を越えるような結論は提示されなかった、と個人的には思う。もしかしたら僕なんかには与り知らないとても深い読みが成り立つのかもしれないけれど、それ以前に、繰り返すけど、作品としてアレだった。以上、感想オワリ。

 資本主義が右肩上がりの成長を前提にしていることは、そんなもの気の利いた高校生なら分かる。資本主義にどっぷり浸かりこんだ僕らの価値観も、当然「成長していくこと」が善であることを信じてやまない。
 が、肉体はそうではない。肉は必ず、醜く老いていく。醜い? 何が悪い。それが自然である。老いて死んでいくのは、内なる自然である。
 成長することは、とても素晴らしい。大切なことだ。だけど、それ以上に、老いていくことも大切なのである。いかにして、綺麗な終わりを迎えるのか、ってことは恐らく想像しているよりも重要なことなのだ。美しく、穏やかな死を迎えること。成長が止まることを自然として受け入れること。こうした考え方が、もし僕らの現実世界にもうちょっと滲みこんでいれば、昨今の金融危機だってもう少しなんとかなったのかもしれない。永遠に成長し続けなければいけない、というのは異常なことだ。そんな異常なことが、いつまでも続くわけが無い。これからはいよいよ文学部の時代が来るってよ。来るよ、来てくれなきゃ困るもんね。さまざまな可能性・選択肢を視野にいれ、それぞれのメリット・デメリットを合理的に判断していくこと、それって実は一番可能性や選択肢を狭めてるんじゃないのかね、むしろ非合理的だよ、パラドックス。そうは思わんかね。思わんなら別にいいのだ。悪いね、陳腐なことを言ってしまっているのだね、そんなことは分かっていますものね。

 新宿2丁目のゲイバーにてこういう話を、ゲイのお姉さま方と数時間喋る。飛び交う下ネタに大笑いしながら、なんとも有意義な時空間でございました。作家の中村う○ぎさんが普通に座っていらっしゃいました。別に伏字にする必要はどこにもないけれど。常連になるのも分かるくらい、皆様とってもフレンドリー。最初ドキドキだったけれど、是非また行きたいものです。

 穏やかな死に方。老いることを肯定的に捉えること。終わりばっか見てるって? いやいやそんなことないよ。
 どうにも言葉遣い、というものは難しい。敬語とかそんなことを言っているのじゃない。人にはそれぞれの言葉遣いというものがある、ということだよ。息遣い、と言い換えてもいい。価値観と、詰まらない感じで要約しちゃっても構わない。
 そういうものを全部とっぱらって、というか無視してしまって辞書的な言葉の意味だけでコミュニケーションするからどこかでズレが生じるのだ。そのズレにも、もちろん旨味がたっぷり詰まっているのだから全然問題ない。だけど、そういうしたズレを、最近はやたらに忌避したがる傾向にあるらしい。つまらない、つまらないよ、せっかくの出汁を捨てちゃうなんてね。
 例えば、マイナスイメージの言葉に過剰反応することほど、退屈なことはありゃしない。とかくジティブがお好きなようである。綺麗にパッケージングされてエナメル加工施されてキラキラした装飾品がくっついちゃってるようなモノ。全部が全部そうじゃないけれど、どうも巷間にはそういうものも結構多いみたいです。上海の街中で、「贋物ブランド、沢山あるよ」と喚きたてる商人のようです。口当たりの良さに惑わされちまってはいけませぬ。日本には古来からケガレというものがありまして云々。おっぱいの語源にはいろいろあるそうです。お、がある種の感動詞であったという説も、あながちハズレではないようです。何の話か。
 ネガポジなんてくだらねー、模範解答なんて要りません、骨だけのスッカスカも要りません、要はそこにどんだけ魂篭ってるかでしょ、かくいう僕の吐き散らす言葉は98%セルロースの、嘘塗れの戯言である、という都合の悪い事実はこの際都合よく忘れることにいたしましょ、そうしましょ。卒業式まであと五日である。