飯山日記 5月22日③ 1947年の飯田の大火 | 江沢岸生オフィシャルブログ「飯山を希望あるふるさとへ」Powered by Ameba

飯山日記 5月22日③ 1947年の飯田の大火

5月18日は、1952年(昭和27年)の飯山の大火から60年にあたる日でした。

先日、飯田市のロータリー交差点(ラウンドアバウト)見学した際、それができた事情の一つが、直前の大火によることを知りました。

飯田を訪れた日、たまたま出会ったロータリーのすぐそばの吉村ホテルの社長に、いろいろ話を聞かせていただき、帰りに飯田の大火を特集している2冊の地域誌も貸していただきました。

「伊那」という月刊の地域誌です。1947年(昭和22年)の飯田の大火から60年に当たる2007年に刊行されたものです。しかも、同年に2回特集されています。いかに大火が飯田の人にとって忘れられない災害であったか、それだけでもわかります。

きょう、目を通しましたので、そのポイントを記します。

1947年(昭和22年)4月20日、日曜日の午前11時40分、市街八十二銀行裏の民家から出火。煙突の火の粉が原因だったようです。

当日は、戦後初めての参議院選挙で、市民は投票を済ませ、満開の桜を見に、でかけていた、あるいは出かけようとしていた人が多かったそうです。

折からのフェーン現象により、火はまたたくまに市街地全域に広がり、その約8割、3577戸が消失しました。

戦後もっとも大きな火事が、1952年4月の鳥取の大火で6786戸が消失、それに次ぐ大惨事でした。ちなみに、飯山の大火は150戸の消失とのことです。

大惨事になった原因は、2点挙げられます。第1に、防火用水がなかったことです。それこそ水道の水程度であったように、地域誌のなかの記録にあります。第2に、能力のある消防ポンプがなかったことです。手押し式ポンプがほとんどだったそうです。

防火用水については、1871年(明治4年)に飯田城を解体したときに、堀までうめてしまい、水路もつぶしてしまったようです。同じころ飯山城も、政府の指導により門などを売却していました、あの時代だと思います。

大火後の都市計画では、300メートルから400メートルごとに防火用貯水池を作っています。ロータリー交差点のまんなかのサークルも、実は丸い貯水池だったのです(近年の社会実験のときにすぐ近くに移築されています。)。

自治体行政にとって、防災がいかに重要な使命であるか、その一端を理解させてくれたのが飯田の大火の歴史でした。

飯山は、雪害、水害、震災、それに記憶が遠くなりつつありますが大火と、あらゆる災害に耐えてきたので、行政も含め強い対応力を誇れる自治体だと思います。それを踏まえて、これからのますますの少子高齢化に備えた、10年先、20年先の災害対策能力の維持のために、いま何をしなければいけないのか、真剣に考えていきたいと思います。