小田眼科ニュース医心伝信 2009年05号(第232号)/「印刷」」の話 | 仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

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小田眼科ニュース医心伝信
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第232号2009年05月号
 

 先月は紙について書きました。紙にはまだまだ話題はありますが、 

 今月は「印刷」の話です。

 「印刷術は魂の望遠鏡」という言葉があるそうですが、人類は記録する道具として文字、紙、筆記用具などを獲得し、正確な記録と情報の伝達ができるようになりました。しかし、手だけに頼るには量に限界があります。一度に大量の文書を作る印刷術が発達しました。

 作成年代が明らかで、現存する世界最古の印刷物は奈良時代の『百万塔陀羅尼』です。これは藤原仲麻呂の乱での死者供養のために、称徳天皇が764年から6年がかりで、全部で100万巻作成し、木製小形の塔に入れ諸寺に納めたものですが、現在でも正倉院などに4万巻以上残っているということです。この経典印刷に使われた活字が木活字か銅活字かは明らかではありません。

 16世紀のグーテンベルクによる印刷機の発明以後、ヨーロッパでは金属活字を使った印刷が一般的になりました。初期の印刷物の多くは聖書と暦書でしたが、印刷術の発達は民衆に文字情報を身近なものにし、最終的には宗教改革、フランス革命など多くの革命の遠因になったとも言われています。

 日本では明治以前には活字印刷は広く行われませんでした。仏典は写経によって書き写されました。庶民の読み物として多くの草双紙類がありましたが、これは手彫り木版、手刷りでした。新しもの好きの日本人が印刷術を知らなかった訳でも興味がなかった訳でもありません。

 16世紀はじめにイエズス会の宣教師らが日本へ来ました。彼らに影響を受けた九州のキリシタン大名(大友宗麟、大村純忠、有馬晴信等)は、4人の少年をローマに派遣しました(天正遣欧少年使節)。宣教師らの意図は若い彼らをヨーロッパ文明に触れさせ、一方では自分たちが発見した東洋の国・日本と、彼らが教化した優秀な日本人をイタリアの人々に紹介する。それに、布教を容易にするための印刷機を日本に持ち帰らせることにありました。しかし、少年たちがローマを始め、イタリア各地で熱烈な歓迎を受けて帰国したのは出発してから8年5か月後でした。その間に日本は厳しいキリシタン禁制、宣教師迫害の時代へと大きく変わっていました。使節が持ち帰った印刷機ではかろうじて50点ほどのパンフレットを印刷できたのみでした。

 これより少し前、朝鮮へ渡った豊臣秀吉は印刷機と銅活字を持ち帰り、後陽成天皇に献上しましたが、これで一冊の経典が印刷されたのみでした。秀吉の没後、徳川家康はこの印刷機に注目し自家用の漢籍、兵書、史書などを印刷させましたが、これも日本における印刷の普及には結びつきませんでした。

 その理由として日本に漢字、カナ、ひらがな、など多くの文字があるばかりでなく、それぞれに書体があり活字を作るのが困難である。熟練した植字工がいないために文字を拾うのに時間がかかるばかりでなく誤植が多い。版画師の技がすぐれていて木版で十分間に合った等が上げられていますが、本当の理由は、文字情報が民衆に与える影響を恐れたとされています。為政者による情報統制の意図があったのでした。

 江戸時代末期にヘボンは辞書『和英語林集成』を中国で、金属活字を使って印刷しました。その時、中国には日本語のカナ文字などの活字が無かったので、ヘボンに同行した岸田吟香が版下を書き、それを中国人の職工がツゲの木に彫って活字を作ったと吟香が書いています。

 幕末の大ベストセラー福沢諭吉著『学問のすすめ』、中村正直訳『西国立志篇』の初版本は和紙に木版印刷、和綴じ本で、『学問のすすめ』は17分冊、『西国立志篇』は11分冊でした。これでは持ち歩くのも大変です。1877(明治10)年に、秀英社(のちの大日本印刷)が、これらの本を活版印刷、洋装の一冊本にしました。

小田眼科医院

理事長 小田泰子