碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 255 | タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 255

第31章 その10

エゴの誘惑を恐れることはない。恐れるとき、それは実体のある現実のものになってしまうのだ。いくらそれが現実らしく強大なものに思えても下手に抵抗してはならない。抵抗するのはそれが現実だと思っている証拠であり、抵抗すればするほどますます現実化されてしまうのだ。必死で否定しようとするのも抵抗と同じなのである。邪悪な考えが出てきた時に「ダメダメッこんなこと考えちゃ!」と頑張ってもやっぱりダメだったという経験のある人も多いだろうと思う。それよりは「ああ、間違えちゃった。選び直そう」と決心して深呼吸でもして感謝と平和でマインドを満たすようにしてみればそのほうが余程早いのだ。選び直せば、たとえば今までモノクロでどんよりしていた世界が突然鮮やかに輝く色彩豊かなものに変化したりもするのである。そうすればますます感謝せずにいられなくなる。この時あなたはこの世の救い主に、世を照らす光になっているのだ。身体としての偽りのあなたが消えてあなたの中のキリストが姿を現したのだ。あなたの思いが神の御心とひとつになって「為された」のだ。

誘惑をうまく退けるには感謝と平和でマインドを満たす以外にもこういう方法がある。誘惑に負けそうになったらこう言いなさい。

「私は神につくられたとおりのものである。神の子に苦しみはありえない。そして、私は神の子なのだ」

確かにこれは効果がある。神に造られたとおりの、神と一つのものだったらこんなバカなこと考えるわけないわよね、みたいな気分になれる。何というか「正気に戻る」ような感じになるのだ。ガックリ来ていたものが神の力で満たされ、今まで簡単に恐怖や苦悩に陥っていたのと同じくらい当たり前に奇跡や癒しがもたらされるようになる。あなたが「神と一つ、神においてひとつ」になれば、というかこの「本来の姿」を思い出せば、真理であるところのあなたを阻むものは何一つなくなるからである。

あなたは神に造られたとおりのものである、そしてあらゆるものが神においてひとつである、ならば全ては神につくられたとおりのものである。神の子であるあなたにはあらゆるものがそのように映る。どこかに病や苦悩や弱さや喪失が見えるならあなたは誘惑に負けているのだ。神の子なんかでいたくない!という誘惑に負けているのだ。いや、どうしたってそう見えるのよと言いたい人も少なくないだろうが、これはもう「そう見えなくなるまで、そう思えなくなるまでやってください」と言うしかない。だってそう見えるのは誰でもないあなた自身の責任であり選択に違いないからだ。他の誰か・何かのせいではないからだ。奇跡は極めて自然なものであり日常的にもたらされている、とはいえそれを「現実のものだと知覚認識できる」までにはやっぱりそれなりの努力が必要だったりするのである。今まであまりに長いこと間違った選択ばかりしてきてそれに慣れすぎているからだ。正しい選択をしてもそのことが不安で仕方なくなったり、なんて笑えないようなケースも多々あるのだ。

あなたはどう在りたいか?それがそのまま他者に映し出されているのである。あなたが傷つきやすく無力で罪深いものである限り、他者もまた悩み苦しんだり罪を犯したりするような存在に映るだろう。そうである限りあなたは救いもせず救われることもないだろう。

神の平和をもたらす力は私たちの中にある。正確に言えば、私たちの中のキリストにある。そして正しい選択をしさえすれば私たちの中のキリストが現れて無限の力を発揮してくれるのだ。キリスト=神の子である私たちは、それぞれの中のキリストを通して一つになるというふうにも言える。こういうことは結局比喩的表現や象徴によってしか表せないので、「コース」の字句通りにイメージしてしまうと却ってそれに囚われ、皮肉なことにそれが一つの「偶像」になる場合がある。ある状態が達成されたその瞬間には、私たちは「ああ達成された。これこそがあの状態なんだわ」とはあまり思わない。そんなことさえ思わないくらいに「ひとつに溶け合って」いるからである。その瞬間のことを後から思い出して「こういう感じだった」と表現しようとしても、その経験そのものを全く正確に表すことなどできないとわかるだろう。そういうわけもあって、古今東西覚醒した人はあまり語らなかったのであろう。語りようがなかったからである。

キリストが私たちに求めているのはほんの小さなことだけだと言っている。そしてキリストはそのお返しに限りなく大きなもの、即ち神の平和とそれをもたらす力を与えてくれると言っているのだが、「ほんの小さなこと」というのは「ゆるしや癒しによって解放されること」なのだ。これが果たしてほんの小さなことなんだろうか?と思う人は少なくないだろう。しかし、全財産も家族も捨てろとか10億円稼いで寄付しろとかとんでもない危険な場所に奉仕に行け、なんてことに比べれば、ゆるしや癒しによって解放されるのは「今ここで決心しさえすれば今ここで誰でもできる、しかも道具もテクニックもお金もなしに時間もかからず誰にでもできる」のだからやっぱり「ほんの小さなこと」と言えるはずである。更に「神の平和とそれをもたらす力」と言われてもそれがそんなにすごいことなのかピンとこないのではないか。しかし、これこそが限りのない奇跡をもたらす力なのである。恐怖とはかなさの絶えないこの世でさまよっているあらゆる人々をキリストの眼で見る、すると彼らの中のキリストもまた目を覚ますのである。

「私の声、私の言葉を恐れるな」とここでキリストは言っている。が、キリストは私たちの中にいるのである。あらゆる人のマインドの中に、あなたのマインドの中にいるのである。となれば、キリストの声や言葉がどこか天空から降りてくるのをじっと待つのではなく、毎日の普通の生活の中でそれらはいくらでも見つけることができるわけだ。それらを受け入れようという姿勢で過ごせばどこにでも見つけることができるものなのだ。私たちがそれを見逃し聞き逃すのはやっぱり「怖い」からである。自覚はなくても怖いのだ。この世界とこの自分が崩れてしまうのが怖いのだ。しかしそれでは救いにならないではないか。そもそも救いを求めているなら、まずはこの世界とこの自分を何とかしなくてはならないのである。それを恐れつつ救いを求めているとは、救いの何たるかを知らないからなのだが、知らなくても全く構わない。今よりはずっと楽に幸せになるのだとだけ思って求めればそれで良いと思う。じじつ、そうなのだから。

神の平和を与えるとは、言い換えればあらゆる苦痛を取り去って愛すべきものだけが見えるようなヴィジョンを与えてくれることでもある。このようなヴィジョンは、あなたに与えられるときは同時にあらゆる人にも与えられていることになるのだ。これはわかりづらいと思う。あの人がキリストのヴィジョンで見ているからといって、私にはそんなもの見えないじゃない!そう思うだろうが、キリストのヴィジョンというものじたいが「ひとつであること」の投影なので、たとえばあなたがキリストのヴィジョンを得ているその時にはもう誰がどう、とかそんなことは一切消え失せているのである。かといって「ああ、今まさにあらゆる人がこのヴィジョンで見ているんだわ」と「認識」することもない。そういう認識すらできないくらい「ひとつ」になってしまっている。あなたの目に映るあらゆる人が同じヴィジョンを与えられている、強いて言うならそうとしか考えられない事態がただあるだけなのだ。だからこそ奇跡がもたらされるのである。

うっかりしていたらまた地獄に真っ逆さま、というような瞬間に今のあなたはこれまでと違う選択ができる。地獄を選びたい誘惑に気づけばそれを避けることもできる。その方法は既に教えられている。

学習途上の私たちのマインドは分裂しており、しょっちゅうエゴがのさばってくるものだ。が、常に自分の中のキリストとともにキリストに従って(これはもちろん「聖霊」と置き換えても良いし、ワークブックでは「神とともに」となったりしているのだし、いっそ宇宙でも真我でも何でもよいのだ)選択すべく努めていればその後のことは考えなくて良いのである。

神がそのひとり子であるキリストに与えたものは全て私たちにも与えられている。というかそもそも私たちも神のひとり子なのだが、学びの達成レベルという点から見れば「悩める今のワタシ」というマインドレベルよりキリストというマインドレベルのほうが進んでいるのであり、まあそういうふうに捉えておいて構わないのではないか。従来のキリスト教のように「神→キリスト→私たち」と捉えても困らないのならそれでも構わない。が、「コース」の語りかたはその時々で変わるので混乱してしまうかもしれない。だから、とりあえずキリストとは「神のひとり子の総称」だと捉えておいてほしい。キリストが神から受け取ったものを私たちに与えてくれる、それは言い換えれば私たちが自分の中のキリストに目覚めることでもある。いずれにせよ、エゴであるままの状態で神から直接受け取ることはできないのだ。これは「幻想・虚構の世界」から天国に直接至ることはできずその前に一旦「本当の世界」と呼ばれる段階を経る必要があることとパラレルになっている、そう考えられる。夢から一気に本当の現実に目覚めるのはちょっと無理なので、同じ夢でも「真実を映している幸せな夢」にまず移行する。その「本当の世界」「真実を移す幸せな夢」の部分にいるのが聖霊であり、聖霊でもあるところのキリストなのだ。本当に「神においてひとつ」になってしまったら、聖霊もキリストも神さえもない、認識しようがないのである。

限りない愛と平和と喜びに満たされるのは神の御心であり、神の御心は必ず為されるのであり、それどころか既になされてしまっている。だから私たちは感謝してよいはずなのだ。キリストはここで神に感謝を捧げている。何故ならキリストには「既になされた神の御心」が見えているからだ。

キリストは神とともにある。時の始まる前から永遠にあり続ける。私たちの旅はそこから始まりそこで終わる。そもそも旅をする必要なんかなかったのだと気づいて旅は終わる。旅路の途中で何があったか、そんなことは全てどうでもよくなり跡形もなく消えてなくなる。旅そのものが既に夢だったのである。目が覚めれば夢は消えてなくなる。

御心を為させたまえ、しかもすっかり完全に。そうすればあらゆる被造物は神の存在に気づき、神こそが自分たちの唯一の源泉だと知るだろう。神において、神と同じように創造されたあらゆるものが神と同じ光を放つだろう。私たちは本来あるべきところに、魂の故郷に帰りついたのだ。神の御心の中で、神の御心によって私たちは「ひとつ」である。

父と子と聖霊に栄光あれ、初めにあり今あり世々限りなくあるなり、アーメン