碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 252 | タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 252

第31章 その8

本当の世界は「肉」ではなくて「霊」の世界である。が、今のあなたにはそう見えなくても気にすることはない。無理やりそう見ようとして、その見方を身につけようとして特別なことをあれこれやるのは本末転倒である。しかし、多くの人が「そんな世界を見るためには何かよほど特別なワークを受けないとダメだろう」などと思ってしまうのだ。あらゆるワークやテクニックは、マインドの中の間違いを取り去るのに役立つことはあるがそれ以上のものではない。この「コース」でさえも例外ではない。ちゃんと序文にそう書いてある!

身体は幻想であって実在しないのだから、本当は身体なんか見えないでただ光だけが見えるのである、などと「コース」は時々語っているがそれは別に「身体を見るべきではない、光だけを見るべきである」と言っているわけではないのだ。身体の幻想性に気づけば自然に見方が変わるよ、というのをそういう比喩で表しているだけであって、身体の代わりに光を見ろ!見なさい!と言っているのではないのだ。そそっかしく考えてそこだけを達成しようとするとおかしなことになるので注意してほしい。

ある判断、そしてそれに伴う知覚認識をしてしまうマインド、そういう曇りのあるマインドのままでいくら何をしてもダメなのであって、その曇りを取り去るにはやっぱり日々のゆるしによって間違いを正していくのが実のところ最も早くて確実だったりするのである。もちろん、「コース」の365日ワークブックは非常に助けになるのだが、これも実際になさった方はおわかりのように別段特別なことを要求するようなものではない。

あなたの思い・意志は本来神の御心の一部である。それがエゴ的マインドに妨げられることなくその本分を発揮していればあなたはもっとも自然な状態でいられる。つまり本来の自己=神のひとり子でいられるのである。

ここには「主の祈り」の最初の部分が出てくる。「(天にまします我らの父よ、願わくば御名をあがめさせたまえ、御国を来らせたまえ)、御心が天に為るごとく地にもなさせたまえ・・・・・」、もともとの「主の祈り」ではこの「御心」とはもちろん「神のみこころ」のことであり私たちが神さまに対してそう祈っているわけであって、あなたや私の思いのことではないのだが、「コース」に即して考えれば御心=マインド=私たち、の思い・意志なのである。つまり、「あなたの思いが天にも地にも為されるように」と神が言っているのであって、しかもそれは神の御心と同じなのだから為されるに決まっている、いや既に為されてしまっている!ということになるのだ。今の私たちにはわからなくても、そう思えなくても、いつどこで何をしていても、たとえ今の自分が地獄にいると思っていても、本来の自己は神の御心と一つの状態であり続けているのである。御心がなされますように、それは「為されて」いるのであってそれと共にあなたの知覚認識機能も正しいものになる。祈りが聴き届けられるとはそういうことでもあるのだ。即ち、真実が投影され知覚認識されることである。救いが為されるときにはあらゆる間違いや幻想は消えてなくなるのだが、そうすれば自動的に真実だけが残る。真実は変化したりなくなったりしないものであり、それは変化したりなくなったりしないということによって真実なのである。そこが幻想や間違いと違うところだ。

あらゆる概念や像は変化する。それらはこの世のものだからである。この世に在る以上、私たちは何であれ概念なしに、つまり知覚認識せずに理解することはできないのだ。というより知覚認識できないもの、判断しようがないものをこそ私たちは「理解できない!」と「認識」するのである。たとえば、神を信じている人も信じていない人もそれぞれに「神」の概念を持ち、その概念について「信じる、信じない」と言っているだけではないか。そして、自分自身に対する知覚認識はそのまま世界に対する知覚認識になる。傷つきやすい(と思っている)人にとってこの世は残酷で危険なところになる。他者は危険な存在になる。慈悲深い人にとって、もちろんその慈悲深さがゆるしをもたらすような真実のものであるならば、この世はそして他者は優しいものに映る。神のひとり子として在るものにとって、この世界は限りなく楽しく幸せなところ、もちろん永遠にではないがしばらく滞在して十分楽しめるところになる。

神の御心は愛であって、絶対に不変なものである。そしてそれは「為されますように」というあなたの祈りによって天にも地にもなされるのだ。今のあなたにはわからなくても常に為されているのだ。ゆるしや救いや解放を求める「あなたの思い」も神の御心と同じように今ここで「為される」=実現するのだ。これは方法なんかではない。テクニックではない。端的な事実なのである。私たちのマインドはあまりに曇って歪んでいるので、その端的な事実を認めることができなくなってしまっただけなのだ。

救いがもたらされるまでは、或いは救いに気付くまでは、学びが続く。学びが続いている間中、私たちの知覚認識や概念は変化し続ける。というより、私たちはそれらの変化をこそ学びと呼んでいるのである。

この世には「良い」と「悪い」がある。そして、何が良いのか悪いのかという「線引き」や判断は人により場合により異なっている(から絶対不変ではなく相対かつ幻想なのだった)。学びが進むにつれてこの判断がまず変わってくる。今まではとにかく「悪い」としか思えなかったことが別にどうってことなくなったり、それどころか「良いこと、恵み」のように見えたりもするのだ。いきなり「良い、悪い」を超越しましょう、なんていってもたいていは無理だろう。だから「コース」は、というか聖霊はこの世の「善悪」という二元的価値観をも救いや学びのために有効活用する。とりあえずの「方便」として使うのである。即ち、普通に考えれば「罪深い=悪い」「無垢・ゆるす=良い」と感じることができる私たちの感性を利用するのである。

「悪い」ことが起きれば(起きたように「見えれ」ば)他者を責めたり怒ったり落ち込んだりするに決まっているのであって、その時あなたは「不幸で惨め」な自己像及び「ひどい世界、不公平な世界」という世界観を抱いている。

自分の中にないものは他者の中にも見えない。他者の中に見えるものは自分の中にもある。特にあなたが他者の何かを批判・非難したいとき、それは絶対確実に自分の中にありそのうえであなたはそのことを認めたくないのだ。「攻撃されている」と感じている以上、それは取りも直さず自分の中に攻撃性や怒りや罪悪感があること以外の何ものでもないのだが、それも認めたくないのだ。恐怖についても同様である。何かを恐れるのはあなたの中に罪悪感=罪深さという「邪悪な考え」があるからだ。これらを認めないのは当人の自由だが、その代償は大きい。

自分の中に邪悪な考えがある、このことをちゃんと認めていないとそれらは自覚のないままに外界に投影され、あなたに恐怖を抱かせる何かとなってあなたの前に現れてしまうのだ。爆弾を引き出しの中に押し込んだまま放っていたら勝手に爆発して痛い目にあうようなものである。

良く言われることだが、いわゆる心のきれいな人とか本当に優しい人というのは他者の中に当人自身でさえ気づいていないような美点を見出すものである。見出してあげようとして探したりするのではなく、もう最初からそういうふうに映ってしまうのだ。(ちなみに、前にも書いたが「良い人だと思っていたのに違ったわ!」とか思って裏切られたと感じるのはそもそもエゴ的な利害という視点で見ていたから、或いはやはりエゴ的に理想化して見ていたからである。彼は良い人なのか悪い人なのかわからない!というのもやはりエゴ的な良し悪しの判断に無理やりあてはめようとするから生じる混乱である)。

そのように無垢なる視点から知覚認識された美点は、相手が何をしようがしなかろうがそんなことで消えてなくなるようなものではない。この世のものとしてうごめいている「身体」に全く関係なく、いつもそこにあるものだ。相手の中に間違いは見えても、それがその人自身なのではなく単なる間違い・ゴミみたいなものである。あなたはそのゴミに邪魔されることなく相手の本来の姿が見えるのだ。

しつこく言うが、あの人はゆるせるけどこの人はゆるせない、とか私は救われるけどあの人たちはダメよ、なんてことはもう絶対にありえないのだ!誰かを神のひとり子、聖霊だと見ない限りあなたは救われない、のではない。誰かを神のひとり子、聖霊だと見ているあなたは救われているのだ!これらは同じことではない。その違いがわかりますね?

学習途上の私たちにとって、誰かの中に「良くないもの、間違い」が見えてしまうのは仕方ない。見えなくしよう、見なかったことにしよう、と力んでみても意味がない。しかし、それを「おかしい!ゆるせん!」と批判し非難するのではなく、「ああ自分にそういうところがあるんだな」とか「攻撃したくなった自分に気付けた」ので「それを見せてくれてありがたいな」と感謝することはできる。もしかしたらこの私も自分では知らないところでこうして誰かの役に立っているのかもしれない、と思えばそのことにも感謝できる。この自分をあなたの学びに役立ててくれてありがたい、と思えるではないか。

こういうことは身体や身体の動きに全く関係なく生じるのである。誰かが親切にもあなたに席を譲ってくれれば嬉しくありがたいのは当たり前だ。しかし、「私がこんなに荷物を抱えてよろよろしているのに席を譲ってくれない、ひどい奴だ!ひどい奴に違いない」と思うのではなく、いや一瞬はそう思ってしまっても「こんなことで怒りを覚えて攻撃的になってしまう自分に気付かせてくれてありがたい」と思えればよいのである。そうして感謝の気持ちになっている時、既に「ひどい奴」は消えてしまっている。心から有り難いと感じているとき、その「ひどい奴」は「ありがたい人、良い人」になっている。

ひどい人だからひどいことをする、性根が腐っているから、エゴの塊だからひどいことをするんだ!と私たちは普通そう考える。でも「ひどいこと」として見ているのは、そう判断しているのはあなたなんですよ。極端な例だが、邪魔だ気に食わないという理由で誰かを殺してしまう人もいる。この場合邪魔で気に食わないのは「身体」としての相手である。でなかったら身体を抹殺して消してしまえとは思わないはずだからだ。当たり前のことだが、エゴにとらわれていればいるほど身体性=他者性が強まるのである。他者がいなければ攻撃はあり得ず、身体は他者性=分離の象徴だからである。

いっぽうで、地獄に仏みたいな感じであなたを助けてくれる人が現れたらその人がどんな風体であれあなたの目には後光が差して見えるかもしれない。もちろんその人の身体がまったく見えなくなるわけではないのだが、少なくとも自分と相手とを分断する壁のようではなくなる。身体は単に(その人の)スピリットの周囲を取り巻く影のような感じになる。「ひとつであること」を邪魔するようなものではなくなるのだ。