碧海ユリカと読む「奇跡のコース」251 | タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」251

第31章 その7

個人としての「この自分」というものがどこかにちゃんとある、と誰もが思い込んできた。「ワタシって何?」とは古来多くの人々が探求し続けてきた問である。が、その本当の答えは概念を与えることも言葉で説明することもできないものだ。私とは何か、その答えはたとえば「!!!」で表されるような、言語を絶した気づきなのである。他者なしの自己なんてこの世的には、つまり概念としてはあり得ないものなのだ。だから言語を絶している。その自己は言語なんかが発生する以前から存在するものなのである。私とは何か、この問いに正しい答えが与えられれば救われる!と思う人は少なくない。誰だって確固たる自己というものがあれば安心できるはずだからである。しかし、それは概念によって捉えられるような何かではありえない。あらゆる自己像を捨て去ってこそわかるようなものなのだ。

認識主体としての自己、これが問題なのだ。要するに「自分」だと思っているマインドのことなのだが、ああ何と「本来の状態」においては認識そのものが「ない」のではなかったか!まあとにかくマインドはそれ自身の中にあるものを投影し知覚認識するのだった。そしてそのマインドこそがあれこれの自己像を獲得するのでもある。そうやって獲得されたあれこれの自己像、そのどれもが本物ではなさそうだと気づくときがくる。こうだと思ってたけど本当はああだったわ、いやそう思ったけど実はやっぱりこうだった、あれもこれも本当の自分みたいだけど矛盾するのよね。そんなことを繰り返していれば誰だって「何やってるんだろう、結局何なんだろう」と思うわけである。これって何かおかしいんじゃないのか?と疑い始めるのだ。

簡単に言えば、混乱したマインドはそれ自身を投影して混乱した世界を作り出す。同時に混乱した自己像を作り出すのである。認識主体としてのマインドが歪み混乱していたらそれが映し出すものも当然混乱し歪んだものになるに決まっているではないか。これはいわゆるサイキック・霊視などの領域においてもあてはまる原理である。とにかく、自らが混乱していたことにさえ気づかなかったマインドが「いや、これは自分が混乱しているのかもしれない」と気づく、これは大きなことである。

ここで再び、他者とは自分が作り出したものに過ぎないことを思い出してほしい。即ち、人であれ組織や社会、世界であれ、あらゆる他者は自分自身でもあるのだ。となると、他者とのかかわりとは自分自身とのかかわりに他ならない。意地悪な誰かを相手にしているあなたは、自分自身の中の意地悪な部分を相手にしているに過ぎない。邪悪な世界が目に映るならあなたは邪悪なものの実在を信じていることになる。あなたが傷つくのはあなたのマインドのなかに「傷つけ傷つけられる」という考えが現実のものとしてあるからだ、言い換えれば「神のひとり子を殺そう」という願望があるからだ。私たちはそうやってマインドの歪みに気付き、気づくたびにゆるして浄化していくしかないのである。

どんなものであれ自己像は、それが像であり認識されうる概念である以上はこの世のものなので、学びが進むに従って変化する。そして他者との関係もまた変化する。想像もしないようなことが起きてしまって「ワタシっていったい何だったの?」などと混乱するときもあるかもしれない。しかし、立ち止まらずに進んでいれば必ずやマインドの平和が得られるようになっているのだ。この世でうまく生きていくために無理やり身につけた「この自分」というものがどんどん落ちていく。あなたの目の前には相変わらずいろいろな人が登場して、中には明らかにあなたを責め傷つけようとする人もいるかもしれない。が、あなたのなかにそれを現実化する考えがなければあなたには何も起こらないのだ。あなたは誰かの間違いを現実化する共犯者にはならないで済むのである。極端な例だがキリストの磔を思い出していただきたい。

あなたの周囲の人々が、あるいは組織や国家があなたにどんなイメージをかぶせようともそれは「あなた」ではない。あなたはそれに合わせる必要もないし、またわざわざ反抗する必要もない。それらのイメージは先方の都合でいくらでも変わり得るのだからいちいち本気で合わせていたらとてもじゃないが生きていけない。本当の自分はそんなところにあるわけもないのだから気にしなくていいのである。まあ言ってみればイメージなんかどうにでもなるようなものなのだ。それがわかると人間関係が格段に楽になる。表層的な部分なんか本当の自己には何の関係もないと思えば却って楽にどうにでもできるからである。たまに「楽しくないのにどうしてニコニコしないといけないんですかっ」という人がいるが、これはかなりどうしようもない。そういう人に限って誰かがムスッとしていると「何よあれ!感じ悪い」といって怒ったりするものだ。マナーとして「ふりをする」のは、表層的な自分とは関係なく本来の自己が存在することを、あるいはいわゆる「個としての本当のワタシ」なんて存在しないことを理解していれば却って全く抵抗なしにできるものなのだ。

ついでだが、「本当のワタシをわかってちょうだい」というのもたいていは「個としての自分の考えや感情に同意してくれ」に過ぎないのであって、言うまでもなくそんなものに本当もヘッタクレもないのである。

このあたりの「本当の自分を知る」教えについては、いわゆるデカルト的・方法的懐疑と通じるものを感じる。イメージを全て捨て去ったところに本質が現れる。いわゆる「本当のワタシ」なんてどこにもない!のだが「ない」ことによって「本来の自己が今ここにある」、そういう構造になっている。これは実際にそうなってみないとわかりにくいと思う。とにかく、イメージとは偶像であり、偶像とは幻想である。それを捨て去らないと真実が入る余地がないわけだ。すごくありていな言い方をすれば、自分というものに対するこだわりがなくなれば人は自由になれるのである。

何だか古典的な哲学の文章みたいだが、世の人が恐れているのは以下のことだそうだ。

「私は自分が何ものであるかを知らない。ゆえに自分がどこにいるのか、何をしているのかも知らない。世界や自分自身をどう見るべきかもわからない」

無知の知、でしょうか?なるほど自分が何ものかわからなければ、その何ものかわからない何かがやっていることだってわかるわけがないのである。まずそこを自覚しましょう。救いや解放が始まるのはまさにそこからなのである。そこを自覚すれば、つまり自分に対してわかっていると思い込んでいることを全て一旦棚上げにすれば、その空間(もちろん物理的な意味ではないが)に本来の自己はおのずから姿を現すのである。

肉か霊か?さて、これまた今更だがあなたは身体=肉を見るかスピリット=霊が認識できるかのどちらかなのであって、身体の実在を信じつつスピリットを感じることはできないのだしスピリットの実在を感じれば身体は実在のものに感じられなくなる。これはもちろん「現実か幻想か」「エゴか聖霊か」「恐怖か愛か」などの選択と同じものである。そして自分が身体なのかスピリットなのか、を選ぶことでもある。誰かの魂=スピリットがあなたを憎んで攻撃してます、などというのは間違いなく幻想且つエゴの世界であって、ここにおいて本来の意味におけるスピリットは認識されていない。また、これも言うまでもないのだが、身体の中にスピリットがあって両方とも実在です、なんてことは金輪際ありえない。時間も空間も個体性もないところのスピリットが身体なんかに閉じ込められるはずがないからだ。私がスピリットを選んだところであの人この人の「肉体」は依然としてあるじゃないか?と思うかもしれないが、それらはもはや癒され祝福されるべきものとして存在する(ように見える)だけになる。傷ついたり病んだり死んだりするためのものではなくなるのだ。

身体が実在する世界は、神から離れてバラバラになった個によって成立する世界である。神から離れてしまったのだから神の属性であるところの「絶対不変・完全さ・普遍的な愛や喜び」は当然ありえず、生老病死や四苦八苦の世界である。一瞬先は闇、昨日の敵は今日の友で明日はまた敵になるかもしれない。あらゆるものが一定ではない、常に変化し続ける世界である。身体もマインドもさっきと今とでは違っているくらいなのだ。こんな世界に生きて、確実なものなど死以外には何もない世界に生きていったい何をあてにしたらよいというのか?そういうところで何か確実に信じられるもの、あてにできるもの、本当に価値のあるものを求めようとするから失望したり苦しんだりする羽目になるのだ。

救いとは、これら全てからの解放である。言い換えれば「当てにならない幻想の世界」からの解放である。

「コース」では(そしてこのブログでも)言葉のトリックとして「救いがもたらされる」「救いがなされる、与えられる」などという表現も使われてはいるのだが、今一度確認しておきたい。まず、救いや解放とは「今のあなた」が努力やテクニックによって成し遂げるような何かではない!むしろ「今のあなた」を捨て去ることによって自然に生じる状態なのだ。更に、救いとは正確に言えば誰か・何かによって「為される・与えられる」ものでもない。便宜上、神や聖霊によって与えられたり為されたりするかのように書かれてはいるが、同時に「救いは既になされてしまっている」とも書かれていることに留意していただきたい。既に為されてしまっている!というよりそもそも救いなど最初から必要なかったのだとわかる、これこそが救いなのでもある。私たちがそれに気づくかどうかだけなのだ。気づきとは、別の言い方をすれば一種の選択でもある。どっちにしようかな、こっちかな、さあ選ぼうという通常の自覚がない状態でなされるのでそれが選択だとは思われにくいのだが、気づきとは紛れもない選択なのである。幻想ではなく現実を選ぶかどうか、それだけなのだ。

本当の自己が知りたい、本当の真実が知りたい、救われたい、解放されたい、と思う人はさまざまな努力をする。身体じゃない世界、あらゆるものが身体としては見えない世界を「見たい」と思い、どうしたらそうなれるの?と思う。ところが、私たちはそんなこと考える必要がないのである!というより、考えるべきではないのである。何故ならそれは「今の私たち」が考えてわかるようなことではないからであって、考えるだけ無駄なのだ。前にも書いたと思うが「3次元にいながら18次元のことを考える」ようなことはどうしたって限界がある。この世にどっぷり浸かったままで「天国とはどんなところなのか知りたい」と思っていくら考えたり調べたりしても無意味なのと同じことだ。わかるわけがない!それがわかるならあなたは既にこの世を超えているはずだ!だからそんなことにエネルギーを浪費せず、やっぱりただ聖霊に委ねる練習をしたほうが余程早くて確実なのである。