碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 250 | タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 250

第31章 その6

この世には「他者」がいる。そして自己とは他者の存在に対して規定されるものである。これは当たり前のことであって異論はないはずだ。この世においては自己なしの他者も他者なしの自己もありえないからである。この両者はやはり絶対矛盾的自己同一の関係にある。そして、自分を「神から離れてバラバラになった、神とは別の何か」だと思っている限り恐怖と罪悪感と攻撃性は免れず、更にはそれを他者に投影することも免れない。だが、それがあまりにむき出しになると「玉砕、全部パア」になって元も子もなくなるので、とりあえず仮面の下に押し隠す。押し隠すだけであって、なくなるわけではない。エゴ=個である以上常に、そしていつまでも私たちはあらゆる他者を仮想敵或いは「私を攻撃する罪深い存在」だとみなすことになるのである。

実は心に抱いている邪悪さを隠さなくてはならない、これはこれであまり楽しくないことである。さらけ出したら身の破滅に決まっている、それはわかっているのだが、そうなるのは自分のせいじゃない!エゴはそう考える。つまり、自分の本当の感情・・・「神のひとり子」たる本来の自己ではなく「エゴの本性」をむき出しにできないのはアンタのせいだ!アンタの罪だ!ゆるせない!になるのである。エゴの本性をむき出しにすることなんか本当の意味では自由でも何でもないのだが、とりあえず「抑え込む・抑圧する」のは感覚的な不自由さをもたらすものだ。あなたが不自由さを感じている原因は、本当はそんなところにはないのだが、エゴにはそれがわからないのだ。だから、「抑圧された怒りや感情を相手にぶつけましょう」なんてことが解放や自由さをもたらすもののように思われている。

要するに・・・自分がそして相手が実際に何をするかしないか、なんて一切関係なく、ただ存在しているそのことだけによって、つまり「自分とは別の何かとして存在している」というそのことだけによって、あなたは相手を罪深いものとして糾弾し、返す刀で自分自身をも糾弾するのである。投影とはそういうことだ。この「相手」は目の前の「個人」に限らない。政治家、組織、国家、権力など、「他者」であれば何でもいいのである。それが「とりあえずいい人としてうまくやっていく」という仮面=自己像の裏で行われている。そういう無数の仮面=自己像がうごめいて成り立っているのがこの世界だ。神から離れてしまったこの自分を現実のものだと思い込むために作り出された世界、それを現実のものとしてうまく維持していくために獲得された仮面=自己像。その下にあるものを見たくない、見るのが怖いと思えば思うほどますます闇は深くなる。目を開いてしっかり見るのだ!そうすればこれもまた「実は、なかった」のだとわかる。ここにおいて初めて危険のない形であなたは仮面を外せるのである。

自分とは、世界とは、幸せとは、安全とは何か?これらの概念は成長するにつれて獲得されるものであって生来のものではない。しかも個人差があり、一人の人生の中でも変化するものなのだから、どう考えても「真に実在」するものではない、つまり神によって与えられたものではない。幻想の世界が現実であるという前提のもとで、この世のあれこれに遭遇しつつ考え出され身に着けられた、いわば「偶像」である。神という概念さえも偶像である。この世には何と無数の神がいることか!

あらゆる概念は「この世のこと」についての「この世における」各人の信念=思い込みである。あの世とか神とか聖霊など、一見は「この世ではないこと」についての概念でさえ、この世の側から見て作られ語られている以上はやはり「この世のもの」である。たとえば18次元のことをいくら語ろうが、それがこの3次元における認識である以上3次元という枠を超えられないのと同じようなものである。この世で生きることによってこの世の経験をもとに獲得された概念である以上、それらは真理を表すことなどありえないのだ。

本当の自分探し、なるものもそれが「この世に生きる個人としてのこのワタシ」を意味するものである以上、全く「無意味」な概念形成の試みにしかならない。うんと悪く言えばバカバカしい自慰行為だとしか思えない。それをしたところで、せいぜい自分をよりうまく誤魔化せるようになるのが関の山である。仮面をちょっと修正したり交換したりしてみるようなものであって、仮面をかぶっていることには変わりないのだし、その裏にある恐怖や罪悪感や攻撃性は手つかずのままである。

聖霊に委ねれば、これら全ての不毛な自己像は解体され消去され、その代りに本来の自己を思い出すことができる。この方法以外で自己像という仮面を脱ぎ捨てるのはあまりに恐ろしいことに違いない。何しろ抑圧し隠していたドロドロがいっぺんに出てきてしまうのだから!あるいは、ただ「何もない、空っぽ」つまり「生まれたばかりの赤ん坊と同じような状態」になってしまうのだから!

正しく学ぶとは今までの間違った学びを捨てることである。それは時として不安や抵抗をもたらすこともあるが、何も失うものはない。捨てるとは、全く違ったものとして再生することでもあるのだ。あなたは空っぽにもドロドロにもならない。あなたの自己像が正されるにつれて他者とのかかわりもまた大きく変わってくるのである。

投影の原理は変わらないが、投影されるべきものが変わるのだ。あなたの目に映る誰かはあなたが作り出したものであり、誰かの目に映るあなたはその誰かが作り出したものであり、更にそれをあなた自身が知覚認識するのである。

あなたの運命は自分の意志とは無関係に誰か他者によって翻弄されているのだろうか?そんな力を持つ者がいるのだろうか?あなたの運命を決めるのはあなたのマインド以外の何かなのだろうか?神?それはあなた(のマインド)とは違う他者なのだろうか?

他者あっての自己、或いは神あっての自我、これらはその構造じたいに制限的自己規定が含まれてしまっている。常に他者とどう向き合うか、が当人の思考や行動の規範になるからである。でないと「この世」では「たがが外れて狂った人」になってしまうのだ。

でも、考えてみれば、いや考えるまでもなく、あらゆる人が「他者あっての自己規定」で動いているのっておかしくないですか?あなたにとっての他者もその人自身にとっては自己なんだし、その人から見ればあなたは他者ですよね。いったい何が何に対して何しているのか?何をしたことにもなっていないんじゃないか?という気がする。もちろん、エゴのままで他者の存在を忘れれば単なる傍若無人で身の破滅を招くだけだから、普通に考えれば一種のマナーとして「他人のことも考えましょう」になるのだが、マナーはそれこそ「生まれたままでは動物と変わらない人間が成長するにつれて学び身に着けていくもの」に他ならない。その学びを解体したからといってそれが聖霊によるものならば傍若無人な野蛮人にはなりようがない。何故なら、聖霊によって思い出されるところの「本来の自己」は神においてみな一つなのであって、神には愛しかないのだから、つまり敵も恐怖も攻撃も何もないはずだからである。無理やり自分を抑えて手なずけている不自由さはなく、限りない自由がある、にもかかわらずそこには神による自然の秩序が保たれるのだ。自分の(マインド)の中に恐怖や罪悪感や攻撃がなければそれを他者に投影する必要もない。

実は、エゴとしての自分が本当に見たくないもの、見るのが怖いものはエゴの本性たるドロドロなんかではない。その更に奥にある「本来の自己」こそエゴがもっとも恐れているものだ。エゴの本性がむき出しになれば社会的或いは身体的には破滅かもしれないが、エゴは生き延びる。しかし「神においてひとつ」である本来の自己が目覚めればエゴは自然消滅し、それに伴って「この世界」もまた消滅してしまうのだ。ゆえに、エゴたる私たちはそこに至らないような範囲であれやこれやの「自分探し」を続けるのである。

少し話を戻そう。私たちはこの人生において経験するいろいろなことが「誰か、何かのせい」であって自分にどうしようもないことだと考えがちである。人間関係においても「私はちゃんとしているのに相手がダメなんだ、相手が変わらない限りこの関係も変わらないし私は幸せになれない」と思ってしまったりする。言うまでもなくこれは相手に罪を着せていることになる。或いは、自分が誰かに期待される通りの人間であるように振る舞う人がいる。それは不自由なことに違いないので心の底には怒りと糾弾がある。そしていつか爆発して「もうやってられない!私はあなたの思っているような人間じゃないのよ!」というような反乱を起こしたりする。これはこれで一つの段階であり、ここから本当の気づきや学びへの道が開けることもあるのだが、今度は「罪悪感を投影する相手、攻撃の対象」としてその他者に執着してしまったり、人によっては結局相手を替えて同じことを延々繰り返したりもする。つまり、本来の自己を回復するのに「他者の期待通りに振る舞うのをやめる」だけでは不十分なのである。

学びが少し進んでくると、まず自分が変われば相手も変わり関係性も変わるということがわかってくる。何もかも相手のせいにすることはなくなってくる。どんな関係であれ、それは「自分と相手」との共同作品であり自分と相手は一種の共犯関係にあることに気付く。相手は自分の鏡なのだと思えるようになるわけだ。それはそれで正しいのだが、やはり十分ではない。鏡ならばそこに映るこの「ワタシ」という自己像はどんなものなのか?相手によって、状況によってコロコロ変わるようなものなのか?それがいちいち「本当の自分」なんてことがあるだろうか?今度は「何もかも自分の投影、自分のせい」だと思えば、誰かの罪も世界の不幸もみんなあなたのせいになってしまい、罪悪感にまみれた無力な自己像が生まれるだけではないか?今までは「相手のせい」と思って他者を糾弾していたその対象が自分自身に、わが身の不幸を嘆く被害者がわが身を責めさいなむ加害者に変わっただけではないか?ま、自己像とは自分がそのつど自分の意志で選べるようなものであるとわかっただけでも収穫ではあるのだが、好きに選んで取り換えられるようなものならどれも真実在ではない。

そもそも、相手という鏡に映る自己像はどこから来るのか、とか「相手という鏡に映った自己像」を見て何らかの判断や認識を行っている自分とはいったいどの自分なのか、などこの周辺の問題を数え上げたらキリがないのである。

そして、ここが決定的なところなのだが、たとえば「相手が意地悪だ」と見えたとして、それを「私はひどいことをされている」と認識しようが「そう見えるということは私が意地悪なんだ」「自分が引き寄せたんだ」と思おうが、まず最初に「意地悪だ」と見えたこと・・・つまりそう判断し知覚認識したのはいったいどの「自分」なのか?その判断はどこから来るものであり、本当に正しいものなのだろうか?