碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 248 | タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 248

第31章 その4

何だかんだいっても結局私たちはマインドなのであって(たとえあなたがそう思えなくても!)、あらゆる現象はそして世界はマインドの投影なのである。即ち、マインドが「真である」と信じていることだけを私たちは経験するのだ。そうであって良かった、と喜びなさいと「コース」は言っている。平和で幸せになりたいなら信じる内容を変えるだけで済むからだ。信じたことが実現します、という凡百の願望実現テクニックがうまくいかないのはそれをやっているのがエゴだから、罪悪感や恐怖をそのままにしているからだ、というのは既に述べた。

何を信じるか?その内容を「変える」ことができるのは、この世においては変化が可能だからである。本来、変化はありえないのだった。あらゆるものが神において絶対不変なのだった。神から離れてバラバラになったと言う間違いの副産物として「変化」という概念・現象も生じたわけなのだが、聖霊に従えばそれもまた学びのためのツールとして有効利用できるのである。そのためにはマインドがオープンになっていなくてはならない。前にも言われたことだが、自分の中に何かを隠し持っている・抑圧している状態だとマインドはオープンになれない。これくらいしょうがないわよね、いいわよね、みんなやってることだものね、などといくらあなたが思ったところでマインドの原理は変えられない、例外はないのだ。そういう場合にはとにかくとりあえずあれこれの思いは脇においてマインドを感謝と平和で満たす、これを繰り返すしかないと思う。

身体は何もしない。あなたを傷つけることもできないし、守ることもできない。あなたを傷つけたり守ったりするのは常にマインドなのだ。身体はマインドの邪魔をすることもできない。そして、自分を守ろうとしてマインドを身体に閉じ込めるならあなたは却って傷つくことになるだろう。閉じ込めれば閉じ込めるほど「危険な他者がいる」という思い込みが強くなるのであり、その思い込みは原理に従って投影されてしまうからである。身体から自分を解放しなさいと「コース」は言っている。自分が身体から解放されればあらゆる人が身体から解放された姿であなたの目に映る。逆もまた真である。言い換えれば、自分と外界=他者とを隔てていた壁あるいは隙間がなくなるのだ。

この壁があるうちは、同じ相手がその時々のエゴの損得勘定によって「敵」になったり「友人、恋人」になったりする。また、誰かを「特別な相手」と思い込めばあなたはその人を身体に閉じ込め、同様に自分自身も身体に閉じ込めることになる。特別、というからには「他の誰でもない、個としてのその人」を求めているに違いないからだ。それって要するに身体ってことですよね。私はあの人の精神を、魂を愛しているんです!と言いたいかもしれないが、もしそれが本当に普遍的なものならばもはや「その人の」精神・魂などとは言えなくなるはずだからである。ある人が本当に全方位的な愛を放射していても、あなたはその人を「個人」として、つまり「身体」として見てしまう。だからこそ個人崇拝ということが可能になるのだ。

偉大な誰かであれ何であれ、この世にはさまざまな「救い」が用意されているように見える。それらもまた全て結局はあなたをこの世に縛り付けておくためにツールに過ぎないのであり、救いというより気休めと言ったほうが正しいかもしれない。あれやこれをやっていればイヤなこと、厄介ごとを忘れられる、そうだとしても厄介ごとは厄介ごととして手つかずのままなのである。見ないふり、と浄化・ゆるしとは違うのだ。だいたい、なにかが「心配事、厄介ごと」に見えているのはあなたのマインドがそう判断・認識しているからに過ぎないではないか。そんなもの、本当はないんだと気づくことと「本当にあるけどとりあえず自分には関係ないからいい」と思うこととは明らかに違うだろう。これでは「この世にあってこの世を超える」ことにならないのである。

以前から繰り返し言われているように、この世のあれこれは結局本当の救いにならずあなたに真の幸せをもたらすものではないのだった。そこまではわかりますね?しかし、なるべく苦労なく生きていきたいと思うのが人の常なのであって、普通の人は選択が可能な状況にある限りできるだけ楽な道を選ぼうとするものだ。それは通常「生き方」と言われるものである。結婚すべきか一人でいるか?離婚すべきか?子供を持つか持たないか?どこに住むか?などなど、身体として生きていく以上そういう選択はどうしても避けられないものである。もっともそんな選択肢さえないような時代や状況というのもあるわけで、「コース」が素晴らしいのはそれがそういうところにいる人々にも全く同じように通用する教えだからである。巷に溢れる「生き方探し」の本なんて所詮「先進国である程度以上の生活が保証されている人々」にしか通用しないものばかりだ。

常軌のような「生き方の選択」は、結局「死ぬまでの間を身体としてどう過ごすか」を決めるものであって、要するにその程度のものでしかない。どれも幻想内のつまり夢の中のことなのである。それがわかったうえで選ぶのと、そこに真の幸せを求めて選ぶのとでは天と地ほどにも違うのだ。それがわかったうえで選ぶ人にとって、その選択は全く自然で無理がないものになる。身体をもっとも生かせる形が自然に与えられると言っても良い。それがたとえ他の人々からは「変わってる、勇気ある」選択に見えたとしても当人にとっては選んだ覚えもないくらい自然で無理のないものだったりする。

死ぬまでの間を身体としてどう過ごすか?このことに自覚的でない人は「どうやったって結局最後は死ぬのだ」という認識すら持てずにいたりするものだ。「コース」による死の定義はさて措いて、通常の意味での死を考えてみよう。身体として誕生した以上、死は絶対に確実であり、しかも死は生とワンセット・・絶対矛盾的自己同一・・になっているので常に生の裏側に死があるわけだ。そのことに正しく気づけばたいていの人は肝が据わり覚悟ができるので十全に生きられるようになっている。普通はこれだけでも十分なのだ。しかし、そのことに「正しくなく」気づいてしまうとたいていの人が絶望に陥り、発狂したり自ら死を選んだりする。何をやっても結局同じ、どうせ死ぬんでしょ!と自暴自棄になったりする。そんな虚しいこの世から逃げるには狂うか死ぬかしかない!と思うのである。甘いです。そういうマインドでは死んだって狂ったって駄目なんです。それは逃げ場になりません。どこにも逃げ場はないんです。往生際悪くそれでもまだ逃げようと考えるからおかしいことになるんです。せっかく大きな解放につながる気づきの手前まで来たのに!

これって要するに神=存在から逃げたい、逃げられると思っているのと同じことなのである。そんなの不可能に決まっている!観念して腹を括りなさい、なのである。

この世にどっぷり浸かったままどう生きようが「ゴール」は同じ、結局死ぬのである。いつどこでどうやって死ぬか、くらいの違いしかない。しかし、現代においてはそんなことさえ、つまり「いつどこでどうやって死ぬか」なんてことさえもがすごく重大な事柄のように考えられてしまっている。それすら「好きに選べる」ことが何だか素晴らしいものだとされている。生まれたからには死ぬのだ、という骨格は無視されてどうでもいいような

枝葉に注意が逸らされてしまっている。

どう生きようが最後は必ず死ぬ、とかこの世の全ては虚しいという「気づき」は絶望をもたらすかもしれないが、よく考えてみて下さい。「本当に」絶望してしまえば解放されるんですよ。希望があって尚且つそれが叶えられそうもないと思うから自暴自棄になるのであって、どこにも希望を持ちようがないなら絶望もありえない、そしてどこにも逃げ場がないと知るなら、それこそが解放になるのだ。この世に救いはないと知るなら救いを求めることもなくなるのだから当然絶望もない。なのに多くの人が「この世に救いはないならあの世で何とか」あるいは「霊的な次元で何とか」などと考えてスピリチュアルとは名ばかりの宗教まがいのものに走り、結局「この世のパラレル」みたいなものを保持してしまっている。エゴを延命させてしまっている。

この世に救いがないと気づいて絶望して死や狂気に逃げ込む人はいったい何から逃げようとしているのか?言うまでもない、上述した通り「存在=神」からである。本来の自己から逃げてエゴを守ろうとしているのだ。どうやっても本来の自己はなくなることができない、存在から逃れることはできない、とここまでわかれば明るく絶望できるのに!実際、多くの人が「これ以上失うものはない」という経験を境に変容しているのだ。

もちろん「コース」は「絶望しないで事実を正しく認めなさい」と言ってくれているのだが、まあ要するに悪あがきはやめましょうと言うことに変わりはない。ここまできたら大きな学びまであと一歩なのだ。

救われるためにあれでダメだったからこれを、などと延々と繰り返していたって仕方がない。「コース」をやったけどダメだったから別の何かを、という人々だって少なくないと思うが、それは「コース」の落ち度ではなく理解できなかった当人の落ち度であると私は断言できる。

幻想の中でいくら選択したところで無意味なのである。選択するという行為が本当に意味を持ち力を発揮できるのは唯一「現実か幻想か」「真理か虚構か」という選択においてだけなのだ。ここで「本当の現実」を選べばあなたは地に足が付き肝が据わり覚悟が決まる。たいていのことに煩わされず常に平和でいられるようになる。理性が正しく働くようになるので間違った判断に流されることもなくなる。言い換えれば常に聖霊の導きを得られるようになるわけだ。言うまでもないことだが、この世にどっぷり浸かったままで真理や本当の現実を選ぶことは不可能である。自分を身体と同一視し、恐怖や罪悪感を抱き、他者を非難し、特別なものを求めているマインドが真理や現実を選べるわけがない。というかそういうものを保持している時点でマインドは幻想や虚構のほうを選んでしまっている。

真の幸福は真理とともにあり、そうでないものを幸福とは呼べない。せいぜいが一時の気晴らしや気休めに過ぎない。気晴らしや気休めが悪いというのではない。ただ、それを真の幸福と混同するわけにはいかないのだ。ま、混同したって別に構わないのだが、その場合は代償として幻滅や絶望や不幸を味わうことになる。

このことが認められていないと「コース」は学べない、というか「コース」学習がものすごく困難になってしまう。忌憚ない心で素直に読めばもう「当たり前のこと、明らかなこと」しか書いてないのだが、抵抗が激しいと全く理解できない難解な書物になるか「わかるけどできない」で終わってしまうかどちらかだ。そして「わかるけどできない」のは実はわかってないからなのだ。