碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 246 | タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 246

第31章 その3

目の前の、或いは心の中の相手(人でも組織でも国家でも世界でも)がどう見えているか?ちょっと立ち止まってこう考えなさいと「コース」は言っている。要するに投影の原理である。

「私がこの兄弟姉妹に与えているのは、私自身が求めている答えなのだ。私が彼(女)についてわかっていることは、私自身についてのことでもあるのだ」

これは日常生活で実践するとものすごくパワフルな助けになるので、是非お勧めしたい。誰かに何かを話すとき、それがあたかも自分自身に向けられた言葉であると感じてみるのだ。あなたはもっとこうしたほうがいいわよ、などと自分が言うのを自分自身に向けられたものだとして受け止めてみるのだ。誰かについて何か思う時、それが自分のことでもあると受け止めてみるのだ。それが無理でもせめて「私はそうならないようにすごく気を付けよう」と肝に銘じることくらいならできると思う。

もう一つ、これが非常に大切なことなのだが、常に立ち止まって「私には何もわかっていない、私は何も知らないのだ」と自覚する。わかっていると思い込む、わかったつもりになる、これほど危険なことはないのである。こうなってしまうと学びも気づきも不可能だ。

そして、どんな人についても、彼らがどれほど自分とは違うように思えても、「この人(たち)も私と同じなんだ、私はこの人(たち)と同じなんだ」と認めること。神において一つなのはもちろんであるが、たとえばあなたがある人を見て「間違ってる、バカだ」と思ったのなら「そう思う私も同じように間違っていてバカなんだ」と考えるべきなのである。つまり「学びの途上にあるという点ではあの人も私も同じなんだ、程度の差なんか関係ないんだ」ということでもある。スピリチュアルに勤しむ人々はここでつまずきやすいのでくれぐれも注意していただきたい。

それどころか、あなたがエゴに転んだその分だけ相手も後退するのである。ここは非常にわかりづらい、理解しづらいところだと思うのだが奇跡がもたらされる原理に通じるところでもある。あらゆるものはまず自分(のマインド)において正されるのだ。

別に具体的に、というか身体どうしとして一緒に何かをしろというのではない。ただ、相手に対して怒りや批判・非難の気持ちを抱くかわりに「一緒に頑張りましょうね」と思っていれば良いのだ。それくらいならできると思う。

ここで、ちょっと補足。あなたが停滞すれば相手の歩みもまた遅れてしまう、とは要するに停滞したあなたの目には相手がダメな人に映ってしまうということでもある。そして、ある人が目覚めているか、とんでもなく深い智慧を持っているかなどということはいわゆる「凡人」には絶対にわからない!のだし、逆に目覚めた人や深い智慧を持った人は自他の批判や非難などしないものである。こいつはわかっとらんな、ということは見えてもだからといって分け隔てもせずダメとも思わず批判も非難もしないのである。そして、目覚めたり深い智慧が出てきたりすれば、今までダメな人だと思っていた誰かの中にも聖霊が見え、その人もまた学んでいることが見えるようになるものである。更に、そのようなものとして接し扱ったりすることによって相手の学びがますます進むこともある。

いまどういうふうに映っていようとも、私たちはみな同じ目的に向かって歩んでいるという点において同等である。当人がそのように自覚していなくても、全くトンチンカンな方向に走っているように見えても、やっぱり誰もが本来の自己を回復しようとしているに違いないのだ。ただ「途上にある」という点において同等だ、という理解は日常生活においても非常な助けになる。

私たちは神のひとり子なのだから、キリストは等しく私たちの中にあり私たち自身がキリストである。そして、キリストはあらゆるものに対して同じように呼びかけている。キリストの呼びかけは一つ、そして私たちの応答もまた一つなのだ。即ち、愛である。

新たな学びのために古い学びを捨てる、それは自然なものとして行われるのであって、無理やり何かを捨てようとか否定しようなどという「闘い」によってなされるものではない。形ではなく考えが問題になっているからだ。お金にこだわるのは良くない!と思って全財産を処分して「私はお金を捨てたの、大切なものを捨てたの、すごいでしょう」と言うならトホホなのである。変な話、お金に関する罪悪感やこだわりが邪魔していたために全然稼げなかった人ならば、そういう余計な学びをなくしてからのほうが「自然に稼げる」ようになったりもするのである。もちろんお金に限らない。人間関係でも健康でも同じことなのだ。

今までひどいことばかり考えていた、罰当たりなことばかりやっていたと気づいても自分を責めさいなむ必要はない。そんなことをしても何にもならない、自己憐憫は何も生み出さない。ただ「間違っていた、愚かだった」と真摯に受け止め認めればよいのである。あなたに必要なのは懲罰ではなくゆるしと解放なのだ。求め方が間違っていた、そのことに気付けば間違いは正される。そして感謝と平和と喜びに満たされたマインドとして在ればあなたは周囲の人にもそれらを与え教えることができる。何より、「私が本当に求めていたのはこれだったのだ」という気づきと理解、これこそが学びのキモなのだ。

あなたの周囲のあれこれ、あなたの周囲の人々がどんなふうに見えてもそれに振り回されないようにしよう。あらゆる現象、外観をゆるすとはそういうことでもある。それは相手を甘やかすこととは全く違う。場合によってはむしろ厳しく見える接し方をするかもしれない。慈善と慈悲とは違うのである。慈善はわかりやすい。が、慈悲は一見厳しく冷たく突き放すように映ることもあるのだ。

何かの現象があなたにとって恐ろしいもの、憎むべきものに映るならそれは「いにしえの、間違った学習の結果」なのである。神から離れてしまった私たちは罪深く無力だ、神が与える懲罰の前には為す術もない、という学びの結果なのである。

または、誰かが平和と喜び以外の状態にあるように見えるなら、その人は本来の自分を見失っているのであり、それを現実にしてしまえばあなたもまた本来の自分を失うことになる。実際に怪我をしている、病気をしているなど「見てわかるような苦しみ」に遭っているようであってもそういう見かけ・現象に目をくらまされてはならないのだ。初めの頃に出てきた「黄金律」を思い出してほしい。自分がしてほしいことを相手にしてあげる、自分が与えてほしいものを相手に与える。そうしている限り、私たちは「ともに歩んでいる」ことになる。時によりどちらかが先んじどちらかが遅れているように見えることもある。が、それすら単なる知覚認識に過ぎないのだ。10年も前から学び続けている人もきょう初めて新しい考えに触れた人も「途上にある」という点においては同等なのである。「奇跡のコース」にも「教師」という概念があるくらいだから、先に学んだ人が教える立場にあっても不思議ではない。が、私たちは教えることによって教えられ、相手から学ぶようになっているのである。形の上では師弟関係であってもそれはあくまで形だけのことであって、本質は同じように教え学んでいるのだ。私たちの学びの目的は「あらゆるものが神において一つである」と知ることなのだから、どちらが先だの後だのなんて気にすること自体目的から外れているわけである。

たった一人では学べない、これは繰り返し言われてきたことだ。それは「身体としての人間が近くにいるかどうか」という問題じゃない。パートナーや家族や仲間を作れということじゃない。たとえば救いや解放を求めつつ誰かを批判・非難したり優越感や劣等感に浸っていたりするなら、あなたは閉じていることになる。あなたは「一人きり」で学ぼうとしている、つまり聖霊の導きを締め出し拒絶してしまったことになる。それが本当の意味での「一人きり」なのだ。もちろん、日常の人間関係はワークの場として非常に有効である。どんな関係であれ、とにかく誰かとのかかわりや接点の中で私たちは自分のマインドの状態を検証できる、つまり「コース」を読んで学んだことが本当に身についているかどうか確かめることができる。そして、教え学び与え受け取るという経験も実際にできるのだ。そのような経験をもたらしてくれる人なら、つまりどんな人でも、あなたは「ともに学んでいる」のである。そういう心づもりで人と接するようにするだけでもかなり新鮮な経験ができるはずなのだ。

私にあるものはあなたにも彼(女)にもある。私が宇宙ならあなたも彼(女)も宇宙である。ともにそうなのだ、という理解がない限りあなたは正しく学んでいないことになる。マインドは閉じ、バラバラの状態にあることになる。あなたは目隠しをしてしまっているので聖霊の光は見えない。目隠しした状態でどうして正しい道を歩めるだろうか?道じたいはいつでも明るく照らされているのである。後はあなたが目隠しを取ればよいだけだ。

さて、これも以前のおさらいみたいなことなのだが、「恐怖と罪悪感と攻撃はワンセット」「罪悪感の強い人は攻撃性が強い」「攻撃的な人ほど罪悪感が強い」のだった。自分を責めさいなむ人ほど攻撃的だ、とはまあ当たり前の事実なのであって、攻撃の対象が自分か他者かという違いなど問題にならないのである。そこに攻撃があるかないか、それだけが問題なのだ。よく言われるのが、「私には攻撃性なんかありません!相手が先にやったんです」みたいなことだが、相手が先にやったと「思った」=知覚認識したのはあなたですよね。そうやって攻撃を現実のものにしてしまったのはあなたですよね。それを「攻撃性、攻撃的」だと言っているんです。だいたい、自責の念や罪悪感を抑圧し隠し持っている人(つまり自覚のない人)ほど、常に不平不満が絶えず誰かを批判・非難したがるものである。

相手に罪深さを見るあなた自身が、自分を罪深いと(秘かに)思っているのだ。ピンとこないかもしれないが、とりあえずそういうものだと考えておいてほしい。とにかく「相手の中に見えるものは自分の中にある」、これをまず認めないと学びは大幅に遅れてしまう。あなたが誰かを憎むのはその人が罪深いからじゃない。あなた自身が罪深いから、そしてそれを外部に投影し転嫁するから憎むのである。自分を罪深いと思っている人が自分自身を憎み攻撃するのはまだわかりやすい。しかし、そういう人に限って自覚のないままに他者を攻撃していたりするものなのだ。当人だけが気づかない、ただ「そういうつもりはない」という理屈によって正当化してしまう。

あなたがたとえ心の中でだけでも誰かのことを批判・非難し、彼(女)を「あれは間違っている、悪いことをしているんだ」と思えば思うほどあなたは自分自身の罪深さを認めていることになるわけだ。あんな人には罰が当たって然るべきだと考えるなら、そう思うあなたこそが懲罰を望み且つ恐れていることになるわけだ。

こういう消息を「なるほど、耳が痛いがその通りかも」と潔く認められればもう本当に画期的にかつ劇的にあなたは平和で幸せなマインドになれるのだ。それって逆なんじゃないの?と思う方も実際にやってみればわかる!何しろ「間違いはそれが間違いだと認めない限り正すこともできない」のだ。