今日も映画。
今日も韓国映画。
今日は「デイジー」というラブ・ストーリー。
詳しくはこちら。


http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=324287

前半はかなり切ないラブ・ストーリーで、25歳の画家の卵の女性、インターポールの刑事、殺し屋の3人が絡むそれはそれは切ない話で、映画の視点がこの3人に入れ代わり立ち代りする構成の面白さもあって、これはとんでもない映画に出会ってしまったかな...そう思っていた。
だが後半は...あー、結局そうなっちゃうしかないのかー、という印象で終わってしまったw。
まあそれでも、全体としては枷がうまく機能した恋物語であり、私が今まで観た韓国映画の中でも(といってもそれほど観た訳じゃないがw)ベスト3に入ると思う。
ところが、ネタバレを避けようとすると何も言えない...うぅ、それこそ私に対する「枷」だよなあw。
それでも何とか感想を綴ってみると...

予備知識なしで観たせいか、第2幕への思いがけない展開に腰が抜けそうになったがw、これがものすごい効果的で、一気に「あれ、これはひょっとしてものすごい映画に出会った?」的な期待に、私の心は躍った。
いや、その前半の3人それぞれの視点にいったり来たりしながら、それぞれの切ない恋心を綴る感じに、すっかり参ってしまった...そういってもいい。
アムステルダムの風景、田園風景、どこをとってもまさに「絵」になるロケーションの素晴らしさも相まって、この映画にみるみる引き込まれていく...

ところが、である。
第2幕が進んでいき、新たな展開が待っているのだが、そこからが...私のようなものでも想像できるような、オーソドックスというか前半のよさがかき消されるような展開になっていき、残念だが私が前半に抱いていた熱が徐々に冷めていく...
いや、もちろんその中盤も終盤にかけてもそれなりに面白いし、とてもドラマティックなのだ。
それでも...なぜか私の熱が冷めていく...
その原因を探ってみると...うーん、これもネタバレになってしまうので、具体的には語れないが、恐らく前半で盛り上げてくれた3人それぞれのかなわない、切ない恋の「バランス」が崩れてしまった...そんな感じだろうか。

その後半、クライマックスには再び過激なアクションが待ち受けており、そのあたりではもう前半で盛り上がっていた私ではない、割と冷静なもうひとりの私が映像を見つめていた...そう言うしかない。

で、観終わったあと、冷静にこの映画のよさを探ってみた。
ふたりの男...刑事と殺し屋という性格からして、物語にはそのキャラクターなりの展開があるべきだし、実際にそれを生かしていたと思う。
そのふたりに絡む画家の卵(チョン・ジヒョンという女優さん、可愛い)が働く骨董屋に送られてくる「デイジー」...そのあたりの小道具の使い方もとてもうまい。
その女性のその「デイジー」の贈り主に対する想い、二人の男がその女性に抱くそれぞれの想いが、つかず離れず交錯する感じもとてもいい。
だが...だが、である。
それは、あくまでも前半までなのである。
でも、その素晴らしい前半に対して、後半の描き方が間違っているかといえば、決してそういう訳ではない。
このあたりが、私としても強くジレンマを感じるところである。

ああ、結局自分でも何をいっていいのかよく分からない...素晴らしい映画なのか、そうではないのか...それさえも結論付けることが出来ない。
...うーん、面白いんだけど、何とも不思議な映画...今はそうとしかいえないかなあ...

余談だが、映画を観終わってから、知って、驚いたことがある。
この映画の監督はアンドリュー・ラウである。
オープニングでその名前を見て、どっかで聞いたことがあるな、名前からして韓国人ではないな、と思いつつそんなことは忘れて、本編に進んでいった。
前半の素晴らしさもあって、監督の名前など忘却の彼方で、やがて映画は終わった。
で、いつものごとく作品に関していろいろ検索していたら...アンドリュー・ラウ...あ゛!!
あの「インファナル・アフェア」の監督じゃん!!
だからか...ああ...なるほどねえ...
ちょっとびっくり...と同時に、自分の記憶力のなさに冷や汗w。

さらに驚いたことは、この映画には殺し屋の視点で描かれたもうひとつのバージョン(アナザー・バージョンというらしい)があることだ。
単純に編集の仕方を変えただけなのだろうが、これはこれで観てみたい。

ついでにもうひとつ余談を。
韓国映画を観ていていつも思うのは、ハリウッド映画、ヨーロッパ映画、中国映画、香港映画、そして邦画を観る時、そのどれとも違う、自分との絶妙な距離感である。
中国映画や香港映画は同じアジア人が出ているので、そういう意味では親近感があるが、文化的には日本とはやはり違うなと思う。
ところが韓国映画を観ていると、顔も同じだし、街並みも割と日本と似ている場合が多いので、ハリウッド、ヨーロッパはいうまでもなく、中国や香港の映画よりもさらに親近感が沸く。
大げさな言い方をすれば、違いは日本語かハングルかというだけなのである。

ところが、もし仮にその韓国映画を日本で同じように作ったらどうなるか...恐らくいろんな意味で「クサイ」と感じる場合が多いに違いない。
現代における日本映画や日本のテレビドラマに出ている役者たちのほとんどは、その「番宣」も含めて、バラエティやニュースの番組に出たりする。
それも含めて「人気」だといわれればそれまでだが、そういった「タレント化した役者」の演じているのを観ることが、観客が物語そのものにのめり込むことをスポイルしていると思うのである。
個人的な意見だが、そのことが今の日本映画、テレビドラマに対する「リアリティ」の欠如に繋がる大きな要因のひとつだと思う。
ひょっとしたらそんな思いが私の潜在意識のどこかにあるために、最近の邦画やドラマに対して覚めた目で観てしまうのかも知れない。

それが韓国映画を観る際には全くない。
出てくる役者さんの「演じていない」時の顔を知らないおかげで、すんなりと物語に入っていけるような気がするのである。
しかも顔立ちが日本人と同じ...この絶妙な距離感が一種の「フィルター」のような働きをするから、多少古臭い展開でも、たとえコテコテであってもw、私は韓国映画や韓国ドラマ(といっても「冬のソナタ」と「オールイン」しか知らないがw)を素直に観ることができるのである。

それを初めて感じたのはあの「冬のソナタ」を観たときだった。
あれだけ古臭いw、コテコテの展開がそれなりに楽しめたのは、その「フィルター」のおかげに違いない。
もしこれを今の日本のタレント役者たちが演じていたらどうなるか...笑っちゃって笑っちゃって、とても観られなかっただろうw。

いや、それとも単純に日本の役者が下手なだけなのかもw。
たとえうまい役者さんでも、日本の役者さんには、バラエティなどに出るなとは言わないが、その際は普段の自分なんてものを「演じて」視聴者の気を引くことをせず、できるだけ無愛想にしていただきたいw。

それにしてもいつも韓国映画を観て思うのだが、韓国の女優さんはみんな肌がきれい。
今日のチョン・ジヒョンという女優もそうだった。
これは...キムチのおかげなのか?w