△JR福島駅東口の中合福島店

JR福島駅東口の中合福島店は、一番館と二番館の2館で構成されている。その間にある広場は「ツイン広場」と呼ばれ、イベントなどに活用されている。何もないときは割りと閑散としているが、8月31日の夜(午後7時台)は違った。小雨が降る中、約70人が集まり、二番館の方を凝視していたのだ。
このうち、約20人は報道陣だった。二番館の入口前に列をつくり、カメラの用意をしていた。彼らは雨に濡れないように、一番館と二番館をつなぐ空中回廊の真下に集まった。報道陣以外の人々はその西側、より具体的に言えば一番館の軒下に列をつくった。スマホを二番館の出入口に向けている人もいた。

△二番館の入口前に並ぶ報道陣

二番館の閉店時間は、地上1~7階が午後7時半、地下1階(食品売場)が8時だ。ただ、31日は全館が7時半で閉店すると予告されていた。地下1階の閉店時間が通常より30分早まったのだ。その理由は、二番館の営業が31日で終了するからだ。
ツイン広場から店内を見守っていると、7時10分ぐらいから店内が慌ただしい雰囲気になった。客と店員が会話したり、握手するケースもあった。店を出る客に対しては、店員がガーベラ(花言葉は感謝)とブルボンのお菓子を手渡した。ブルボンのお菓子は、報道陣にも配られた。

△中合の買い物袋を持つ女性客

そのとき、30歳ぐらいの体格のいい男性に「まだ(店内に)入れるんですか」と話しかけられた。「あと15分で閉店ですが、まだ入れますよ」と回答すると、彼は小走りで店内に向かった。9月1日以降はシャッターが閉まったままになるので、残り15分でも店内に入り、買い物した方がいい。
7時半、店員がショッピングカートを押して、店内から出てきた。黄緑色のかごが上下に2つ乗せてあり、どちらも商品が山盛りになっていた。それに続いて、女性がやはりショッピングカートを押して、店内から出てきた。こちらも黄緑色のかごが上下に2つ乗せてあり、どちらも商品が山盛りになっていた。

△客にガーベラを手渡す佐々木店長

2台のショッピングカートで運ばれた商品は、いずれも女性が購入したものである。1人で運べる量ではないので、店員が手伝ったのだ。二番館ではもう買い物ができないので、まとめ買いをしたようだ。女性は待たせていた車に商品を積み込み、店員にお礼を言って二番館を後にした。
7時半を過ぎても、店内にはまだ客がいた。店員と記念写真を撮影している客までいた。何度も来店しているうちに、仲良くなったらしい。その背後では、2人の店員が「中合福島店二番館19年間ありがとうございました」「中合福島店リニューアルオープンに向けた売りつくし」という横断幕をそれぞれ掲げていた。

△客にブルボンの菓子を手渡す店員

7時50分、店内に客がいなくなった。二番館の入口前に白い台が置かれ、佐々木浩店長が上がった。その両側に前述した2人の店員が並び、再び横断幕を掲げた。佐々木店長はマイクを持ち、「約20年間皆さまのご愛顧に支えられながら、また、お取り引き先の皆さまのご協力によりまして営業させていただいたことを感謝申しあげます」とあいさつ。続いて、佐々木店長は台を降りて、両側の店員と共に深々と頭を下げた。

△大量の商品をカートで運ぶ女性客

佐々木店長と2人の店員はその後、店内に戻った。ツイン広場から見えるところに1列に並び、他の店員と共に再び頭を下げた。次の瞬間、シャッターがゆっくりと下がり始めた。店員たちの身体は頭部、上半身、膝上の順番で見えなくなった。シャッターが閉まり切ると、店員たちの身体は完全に見えなくなった。一番館の軒下でその光景を見ていた人々は、一斉にため息をもらした。

中合は1830年に創業した。2代目中村治郎兵衛が福島市荒町に蔵を構え、太物行商を始めたことが発端だった。1874年に中村呉服店を開業し、正札販売を始めた。1938年に百貨店業を開始。1973年に大町から福島駅東口の辰巳屋ビルに移転した。旧店舗は大町パルクとして営業を継続(1984年に閉店)。オイルショックの時代に経営が悪化したため、1978年に大手スーパーのダイエーと資本提携し、その傘下になった。1993年に会津中合(会津若松市)、翌1994年に清水屋(酒田市)と合併し、3店舗体制になった。


△報道陣にあいさつする佐々木店長

中合福島店のライバル的な立場にあったのが、旧山田百貨店だ。1928年に山田英二が創業。もともとは福島市本町に店舗を構えていたが、中合福島店と同じ1973年に福島駅東口の平和ビルに移転した。これに伴い、中合福島店と旧山田は軒を並べる格好になった。店舗面積は、中合福島店が1万5169㎡、旧山田が1万0332㎡だった。
両者は地域一番店の座を争うライバルだったが、福島駅前通り商店街に人を呼び込むという意味では利益を共有する関係にあった。両者の間にある広場は、それぞれの頭文字から「山中広場」と呼ばれた。1992年度の売上は、中合福島店が176億3000万円、旧山田が83億7700万円だった。

旧山田はその後、ダックシティ山田、福島ビブレと店名を変えながらも、平和ビルで営業を続けた。しかし、1996年に「平和ビルから撤退し、新設の曽根田SC(ショッピングセンター)に移転する」と表明した。JR福島駅の北側約500㍍にある旧東開工業跡地に積水ハウスが建設するもので、店舗面積は中合福島店を上回る1万6261㎡。福島ビブレのほか、複合映画館「ワーナー・マイカル」がテナントとして入る。車社会に対応するため、約1000台収容の立体駐車場も併設するとした。


△入口のシャッターが下がり始める

これにより、平和ビルはキーテナントを失うことが確定した。代わりのテナントが見つからなければ、福島駅東口に巨大な空き店舗が出現することになる。危機感を抱いた福島駅前通り商店街振興組合や福島商工会議所は、中合に「平和ビルのテナントになってほしい」と要請した。中合は「駅前通り商店街に巨大な空き店舗ができると、自らもダメージを受ける」と判断し、平和ビルへの出店を決断。辰巳屋ビルと合わせて、2館体制にすることを表明した。

中合は増床に合わせて、大規模な改装を実施すると表明した。投資額は約40億円。辰巳屋ビルと平和ビルを一体化するため、4~6階部分を空中回廊でつなぐ。通路の幅は4㍍。辰巳屋ビル側は従来通りに婦人層を対象にした売り場とし、平和ビル側は書店や食品など幅広い層を対象にした売り場にする。売り場の名称は一般公募により、辰巳屋ビル側が「一番館」、平和ビル側が「二番館」と決定した。店舗面積は、一番館が1万5169㎡、二番館が1万1214㎡で、計2万6383㎡。目標の売上は220億円に設定した。