北海道の十勝毎日新聞2014年5月10日付に「帯広柏葉高、『時代』合唱へ~先輩・中島みゆきさんの代表曲」という記事が載った。
帯広柏葉高の3年生276人が来年3月1日の卒業式で、中島みゆきさんの代表曲「時代」を全員で合唱する。「『時代』プロジェクト」と題したこの企画は、昨年12月の2学期終業式後の2年生集会の席上で持ち上がった。現3年生の学年主任で、中島みゆきさんの研究者でもある田口耕平教諭が呼びかけた。生徒も賛同の拍手をしたため、企画が動き出した。生徒有志が実行委員会を結成し、歌を合唱用に編曲。女子はソプラノ、アルト、男子はテノールの3部構成に仕上げた。4月28日から全クラスがパートごとの練習を始めたが、時間は限られている。このため、6月に「時代祭(まつり)」と題するクラス対抗合唱コンクールを開催し、生徒たちの士気を高める。中島さんは同校出身。(記事の要約)
最近、卒業式で「時代」を合唱する学校が増えているという。「時代はめぐる」「生まれ変わって歩き出す」「別れと出会いを繰り返し」という歌詞が、長い人生と困難を乗り越えて行くさまを表現しているように思えるからだ。

この歌は、中島本人が何度かセルフカバーしている。薬師丸ひろ子など複数の歌手もカバーしている。CD化はしていないものの、多くの歌手がコンサートで歌っている。コマーシャルソングとしても、長く使用されている。これだけ多方面で歌われるのは、心に響く名曲だからだろう。
中島は1975年10月、第10回ポピュラーソング・コンテスト(通称ポプコン)で「時代」を歌い、グランプリを獲得した。翌11月の第6回世界歌謡祭に日本代表として出場し、再び「時代」でグランプリを獲得した。翌12月に「アザミ嬢のララバイ」に続く2枚目のシングルとして発売され、今日まで40年近くにわたって歌い継がれている。
この名曲はいつ、完成したのか。大舞台で歌ったのは、前述した第10回ポプコンが最初である。完成したのはその前ということになるが、具体的な時期については諸説ある。

ノンフィクション作家の石井妙子は文藝春秋2011年10月号「中島みゆき~哀しき父への鎮魂歌」で、次のように書いている。
《(※デビューシングル「アザミ嬢のララバイ」の)発売日は昭和50(※1975)年9月25日。ところが、その発売日を目前にした16日、父・眞一郎が突然、脳溢血で倒れた。帯広の第一病院に運び込まれたが昏睡状態が続き、覚悟して欲しいと医師から告げられたという。
父の意識が戻らぬ中で美雪(※本名は漢字2文字)は翌10月、かねてよりエントリーしていた第10回ポピュラーソングコンテストに出場するため、父の病室からギターを下げて会場に向かった。この時、美雪はコンテストで歌う曲を急遽変更している。父が倒れてから病室で作ったものに。それが今でも中島みゆきの代表作として知られる「時代」である》=※はブログ読者のための注釈、以下同じ=(この記事は石井妙子「日本の血脈」文春文庫に収録されている)
「時代」は倒れた父親にあてて書いたという説は、ちまたで広く語られている。石井はその説を事実と受け止め、記事として書いた。しかし、中島自身はこの説を否定している。月刊カドカワ1991年11月号「総力特集・中島みゆき」で、次のように語っている。
《「時代」?いや、あの歌を作った時には父はまだ生きてましたよ。元気だったよ。 だってホラ、最初のポプコンの「傷ついた翼」で入賞したのが5月だっけ?その時にはもう次の大会の曲は出してるわけ。てことは5月より前に「時代」を書いてるんだけど、父親が倒れたのはポプコンのあとの9月ですもん。私があの歌をギターで自分ちでもってウンタラウンタラ書いてた時には、元気で走り回ってましたもん(笑)。だから、それはどっかから生まれた神話でしょう。あとから見るとそういうことがドラマ性を盛り上げているっていうだけのことじゃないですか?》
当時、ポプコンは5月と10月の年2回開催されていた。開催地は共に静岡県掛川市のつま恋。中島は1975年5月の第9回ポプコンで「傷ついた翼」を歌い、入賞した。インタビューにある「最初のポプコンの『傷ついた翼』で入賞した」は、このことを指している。
また、ウェブサイト「中島みゆき研究所」2009年9月25日付には以下のような記述がある。
《(※ポプコンの)第1次予選にあたる釧路・帯広地区大会(1975年7月29日開催)から『時代』でエントリーしていたことが、当時のプログラムなどから確認できている》
中島本人が否定し、プログラムでも確認できるとなると、石井の前述した記事は誤りということになる。

では、なぜ、倒れた父親にあてて書いたという説が広まったのか。その起源は、サンデー毎日1977年11月20日号「編集長のカバー・インタビュー~中島みゆき」と見られる。中島は、同誌編集長・八木亜夫との対談で次のように語っている。
《―でも、あなたの『時代』という歌は恋の歌と違いますな。
「私の父は北海道で産婦人科の医師でした。弟がひとりいます。その父が脳溢血で倒れまして、『時代』はそのとき作りました。その『時代』で75年のポプコンでグランプリをもらいました。これ、ほんとにタナボタで、賞金150万円。そしたらまもなく父が亡くなりました」
―お父さんの死を予感していたわけですか。
「そんなこともないんですけど、結果的にはそうなりました」》
このやり取りは、原稿をまとめた編集部の担当者が話をオーバーにしたか、誤訳したと考えられる。テープの録音を文字おこしすると、こうした食い違いはよく起こる。もちろん、サービス精神のある中島が、話を盛った可能性も否定できない。
前出「日本の血脈」の参考文献欄を見ると、サンデー毎日は記載されているが、月刊カドカワは記載されていない。石井が月刊カドカワを読んでいたら、別の書き方をしたかもしれない。