発覚❗️旧軍国内で毒ガス人体実験❗️/ 加計が山林(毒ガス保有・旧軍跡地) を購入していた❗️ | ☆Dancing the Dream ☆

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森村誠一のノンフィクション『悪魔の飽食』で描かれたように、
旧日本軍の石井機関の「731部隊」(満州が拠点)による
主にB兵器の開発のための人体実験実験については、
よく知られるところだが…
https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/vuniv99/exp-lec4.html

日本軍が、人体実験を行なっていたのは、
満州などの海外だけではなかったということが、
今年(2018年)発覚した。
日本軍は、海軍も陸軍も「日本国内」で、
軍関係者に対し ㊙️の「毒ガスの人体実験」を行なっていた。

下は16歳の子供もいたという。
その事を示す資料が発見されたのだ。


相模海軍工廠 研究実験成績報告 (人体を使った毒ガス実験の報告書)
「除毒剤ニ関スル研究」の表紙 / 防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵

**共同通信2018/8/18
 旧日本海軍、人体で毒ガス実験 防衛研究所に報告書
https://this.kiji.is/403344625467278433?c=39546741839462401

**東京新聞 2018年8月18日
 旧海軍、毒ガス人体実験 国内で米軍使用に備えか
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081802000288.html



恐ろしいことに、
国内で兵士を用いて毒ガスの人体実験を行なっていた
旧日本軍の「相模海軍工廠 化学実験部」は、
現在、地元住民の反対運動が続けられている
「武田薬品 湘南研究所」の付近にあった。
「武田薬品 湘南研究所」は、世界一とも言われるBSL3施設を擁し、
政府の要請があれば生物兵器の開発などをするのではないかと、
恐れられている。
この周囲には、三菱電気、神戸製鋼などの施設がグルリと立ち並ぶ。



「相模海軍工廠化学実験部」について少し調べてみた。

海軍で毒ガス兵器の研究開発を担った
「技術研究所化学研究部(神奈川県)」⇨
 これが改組された「相模海軍工廠化学実験部(同)」

【略史】
第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手する。
当初、それは陸軍でのみ実施された。
1922年 (大正11)艦政本部に設置され、
1923年 海軍技術研究所となった。
海軍で本格的な化学兵器の研究と技術開発が始まる。
1930年 (昭和5)化学研究部第二科は、
平塚海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、平塚出張所を開設。
昭和8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設。
昭和9年 平塚「海軍技術研究所化学研究部」として独立。
昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。
昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、
「化学研究部」が「相模海軍工廠 化学実験部」になる。
昭和20年 終戦、廃廠。
海軍の化学兵器は、
防毒兵器・発煙剤・焼夷剤・艦船用消化剤・防空気球・特薬など。
こうした兵器の中でも、特薬といわれたガス兵器は、
催涙剤・くしゃみ剤・ただれ剤・致死罪の一〜四号特薬として知られ、
必要に応じ艦砲用弾丸に充てんできるよう計画された。
平塚の海軍技術研究所の碑は、跡地に平成6年に建立された。
相模海軍工廠跡にも昭和63年 碑が建てられている。
**http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kaigun-tec-sagami.htm
**http://www.hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/13.html
**https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/17348/oep058_1_001.pdf
環境庁の調査によると、
旧軍毒ガス弾の廃棄方法は、
おおむね次のとおりであった。
旧軍毒ガス弾等の廃棄は、
米軍進駐後に、在日米兵站司令部の命令で実施された。
廃棄方法は、焼却破壊及び海中投棄が最も安全なものとして採用されたが、
主としては海中投棄であった。
日本人作業員は専ら投棄船の操縦及び投棄作業の実施に用いられ、
監督の任にあたる在日米軍は看視船を同行するか、
飛行機から看視することによって、その実施作業を監督した。
なお、監督の目 を逃れ、
しばしば投棄指定場所が侵犯された旨が残存資料に指摘されている。
また、遺棄方法は、おおむね埋設、海中投棄、焼却等であり、
旧軍毒ガス弾等の遺棄 は、終戦時から米軍進駐前に実施された。
遺棄については、公文書等が残存しないため、
環境省および都道府県等に提供された証言等に基づき、
情報を取りまとめた。

ーーー

日本は、若者に赤紙一枚で特攻という自爆テロを強制し、
戦地には補給物資をもたせず兵士の大半を餓死させたという、
驚くほどに 自国の民の命を軽んじた国である。
やはり…と言えば、やはりだが…

戦争末期、
島民の4人に1人が殺されたという凄まじい沖縄戦は、
本土防衛のために捨て石にされたが、
差し迫る米軍の本土上陸に備えようと、
日本軍は、毒ガス攻撃の急拵えをしていたのである。
切迫した状況の中で、
軍は、自国の兵士を用いて人体実験まで行ったということだ。

ーーー

さて、
多額の補助金を地方自治体から毟り取り、
財政危機にまで陥らせている加計学園。
加計が新設した今治獣医学部では、
BSL3施設が設置されるということからも
生物兵器の開発を計画しているのではないかという
疑念も持たれているが、

加計学園 岡山理科大学の本拠地、
岡山市の小高い丘・半田山付近には、
旧陸軍の毒ガス弾が埋まっている可能性があるのをご存知だろうか❓
いや、岡山だけではない。
加計学園の千葉科学大学が設置されている銚子市は、
環境省の旧軍の残留毒ガス弾の調査(2003年時点)の結果、
大量の毒ガス弾が(606件 他所は多くて十数件)見つかっている。
https://ameblo.jp/et-eo/entry-12397243376.html

現在も岡山の半田山には、岡山理科大学と隣接して、
「陸上自衛隊 三軒屋駐屯地」があるが、
そこは、戦時中に
毒ガス弾を保有していた
広島陸軍兵器補給廠 三軒屋填薬所」の跡地である。

ーーー

そして、先日、
加計追求チームの加計の登記簿を調査しておられるnemさんが、
1995〜2002年頃、
加計学園が 新たに農水省から
この近辺の土地(山林)を購入
していることを発見された❗️

ほとの@hotono_k さんの協力で、この土地が、
岡山理大の研究・社会連携機構 「自然フィールドワークセンター」…
宿〜原に跨がる山林「生態システム園」であるらしいことが判った。

これだ…

生態システム園について
http://www1.ous.ac.jp/garden/seitaien.html
平成12年には,岡山理科大学の北東,岡山市原に
生態システム園(生態システム研究施設及び酸性雨観測施設)として
33.3ヘクタールが加わりました.
自然植物園の面積と合わせると阪神甲子園球場約14個分になります.
利用申し込み http://www1.ous.ac.jp/garden/riyounitsuite.html




【nemさん 発掘❗️加計学園が農水省から購入した岡山理大近辺の広大な山林】
https://mobile.twitter.com/yo_nem/status/1077009848028430336



ーーー

…さあ、このサビサビの門扉は、何を物語っているのだろう❓

もう一つ岡山理科大学自然フィールドワークセンターが
管理する施設に、
前島臨海教育施設」(瀬戸内市牛窓町牛窓)がある。



加計が購入している岡山の「山」と「海」 …
そのエリアは、
環境省の調査資料によると、
旧日本軍が毒ガス弾を廃棄したエリアと重複する。

ーーー

1939年、陸軍省は、
大阪陸軍 兵器支廠 禁野倉庫で発生した爆破事故を受け、
安全対策として各兵器支廠の火工作業設備を
住宅密集地から隔離する事を計画し、
岡山陸軍兵器補給廠が、周辺を調査の結果、
人家が少なく、細い谷地が数条に広がり
天然の防爆土堤を形成している岡山東陸軍射撃場のある
牧石村三軒屋(現、北区宿)を移転先として選定した。
そして、第十師團経理部(姫路)がこの民間地を買収した。

1940年 岡山陸軍兵器補給廠は、竣工式をとり行い、
1942年3月、事務所、火工作業設備、
洞窟式弾薬庫27基が竣工した。
弾薬科の主力を移転し、
「岡山陸軍兵器補給廠 三軒屋分廠」(三軒屋部隊/矢野一三少佐)が
開設された。
10月、三軒屋分廠は「岡山陸軍兵器補給廠 三軒屋填藥所」と改称。

1945年4月、岡山陸軍兵器補給廠が、
「広島陸軍兵器補給廠 岡山分廠」に改編され、
「岡山陸軍兵器補給廠 三軒屋填藥所」も移管され、
「広島陸軍兵器補給廠 三軒屋填藥所」と改称した。
8月15日 敗戦。

「広島陸軍兵器補給廠 岡山分廠」と
「広島陸軍兵器補給廠 三軒屋填藥所」は、
毒ガス弾を保有していた。
毒ガス弾は、空襲に備えて周囲の山の洞窟に隠し、
敗戦時、瀬戸内海に投棄したのである。
今も、半田山には、毒ガス弾が眠っており、
瀬戸内海の海底にも、毒ガス弾が沈んでいるのだろう。


環境庁は、1973年(昭和48年)と、2004年(平成16年)の2度、
旧軍毒ガス弾の全国調査を行なっている。
2004年の調査の岡山の調査のまとめが以下の表⬇︎である。





絵としては、こんな感じである。

ーーー

加計学園の創設者、加計勉は、
戦中の軍役の経歴を詐称していた疑いがある。
加計勉は、小倉の戦闘機工場で子供たちの引率責任者として、
軍役に服したとされるが、
小倉には飛行機工場はなく、あったのは毒ガス工場である。
加計勉は、「曽根の毒ガス工場」で働かされた学徒の
引率教官をしていた可能性が高い。
https://ameblo.jp/et-eo/entry-12396228356.html

加計勉の母校・海辺の忠海中学から多くの学徒を動員したのが、
「広島陸軍兵器補給廠 忠海分廠」毒ガス製造の〈大久野島〉である。
そして、大久野島から運ばれた毒ガスを充填していた工場が、
「曽根毒ガス工場」なのである。
「曽根毒ガス工場」は、表向きには火薬製造を主務として、
毒ガス充填砲弾を作っていたことは隠されていた。

毒ガス製造に従事させられた
かつての学徒をはじめとする元工員達は、
命を落とした者、健康被害に苦しむ者も多かったが、
戦後も、保証どころか、国から口止めされていた。
しかし、広大医学部第2内科教室(旧 和田内科教室)から発展し、
1961年に広島大学を中心とする組織
「大久野島毒ガス傷害研究会」が発足すると、
彼らは、次々に口を開き始めたのだ。

それと軌を一にして、加計勉は、
1960年夏、岡山市の半田山の土地を購入し、
1962年、広島から岡山へ進出。学校法人 加計学園を設立した。

加計勉は、戦中、旧陸軍の毒ガス兵器工場(曽根工場)の
軍の機密保持者であった疑惑が濃厚であり、
旧軍コネクションをもつが、
政治家にもコネクションをもっていた。
広島、忠海中学の先輩として交流をもっていた池田勇人は、
1960年7月に総理大臣に就任し、池田内閣が発足。
後援会長をしていた宮澤喜一は、1962年に初入閣している。
グッドタイミングである。
加計学園の公有地取得や許認可に、
このコネクションは有効に作用しただろう。

ーーー

ちなみに、苅田港の毒ガス弾処理
〈調査〉を請け負ったのが、
「日米平和・文化交流協会」の前身、旧・日米文化振興会。
「日米平和・文化交流協会」は、
安倍晋三、加計の千葉科学大教授の杜祖健(Tu Anthony)が
理事として名を連ねていた。
そして、安倍の古巣の「神戸製鋼」が〈処理事業〉を落札したのだ。

毒ガス処理事業は、これだけで終わらない。
中国 ハルバ嶺における砲弾数は約 30~40 万発。
中国全土に遺棄された毒ガス処理を
展開できるという無尽蔵な儲け話なのである。

〜西日本新聞 2008年08月29日 【苅田港の毒ガス処理】
福岡県苅田町の苅田港沖などの海底で旧日本軍が遺棄したとみられる毒ガス弾が見つかり、旧防衛庁が2003年2月、日米平和・文化交流協会の前身団体に調査事業を約900万円で委託した。結果を基に同年11月、第1期処理事業の入札が行われ、神戸製鋼所が落札。06年からは国土交通省所管の事業となり、神鋼が引き続き受注し現在第5期を実施中。これまでの総事業費は約260億円で、計約2000発が無害化処理されている。〜

ーーー

加計学園の2代目 加計孝太郎も
加計勉と同じ手法で、
同じく 現総理 安倍晋三とのコネクションによって、
国民の財産を掠め取っているが…

以前から 気になっていたことが
もう一つある。

何故か、加計学園の岡山理科大学、
倉敷芸術科学大学は、「浄水場のそば」にある。
ただの偶然かもしれないが…



上下水道の民営化で、
浄水場、処理場、管路などの施設が、
民間企業に委ねられるようになるというし、
岡山理科大は、国の産学官連携の推進に呼応して、
人間環境科学研究室 猶原順教授 × 千代田工販(株)」による
環境浄化の研究では、浄水場でも使える
新しい水処理の技術開発を行なっているようだ。