①「千と千尋の神隠し」は琉球の物語 ~「6th station」浮島と首里を結んだ長虹堤  | ☆Dancing the Dream ☆

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今年も、
梅雨が明け、台風が来る前の、
6月下旬の沖縄を訪れた。

この旅で
首里の小さな工房で出会った
可愛らしい音を立ててリズミカルに銀を打つ、
金細工師の小槌の音
が、今も耳から離れない。

琉球の伝統工芸師の手による金細工、
琉球王朝時代の辻の遊女たちが身につけていたという
結び指輪」は、
私に、彼女たちとの "結び" をもたらしてくれた。
(その不思議な旅の日記は、こちら(←クリック)にあります。)


海よ 宇宙よ 神よ いのちよ このまま永遠に夕凪を…


驚くべきことに、
東アジアのちょうど中央の
東シナと太平洋の境界の美しい海に、
武器を持たずに暮らす
小さな島々からなる王国があった。

美しい少女たちが神気を帯びて、
独特の琉球音階の調べに乗って
青い海の波間に歌い、舞い踊る。
まるで竜宮城のような琉球王国。

乙姫のごとき少女たちは、
はるか海の向こうの万邦の来訪者を
身を尽くしてもてなし、
東アジアの千尋の海を結び、
この指輪の結び目のような役目を果たした。

この王国は、
争いよりも平和を好む
おおらかな母系社会が形成されおり、
明治の家父長制と男性中心の道徳観念が入ってくるまでは、
彼女ら遊女に差別の目を向けられることはなかった。

琉球が、
武器を持たず平和が保たれ
交易で栄えたのも、
貧しい少女たちが
王国をささえたからこそである。

「千尋」とは、
はかり知れないほど、
きわめて広い、きわめて深いという意味である。

海のごとく
女もまた
はかり知れない力をもつ。

アジアのみならず、
原始宗教の司祭の多くが女性であるのも
平和を祈る女性性のはかり知れない力に
頼ったからかもしれない。


東アジアの中央に位置する沖縄。 
20億の東アジア人を結ぶ架け橋となる力を秘めている。


そして、
宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』は、
琉球の物語ではないか
と思うようになった。


これは、全くの私感であり、
そんな説は、どこにも存在しないが、
個人的には、最近、そう確信するようになった。

今日は、
その話をしよう。


「千と千尋の神隠し」の「海原電鉄」・・
琉球王朝がつくった、「長虹堤」・・
海原電鉄に、琉球の幻の虹の架け橋を思い浮かべるのは、私だけだろうか。




琉球王国は、 
15世紀に成立し、明治政府によって併合されるまで
約450年の間、中国、朝鮮、マラッカ、シャム、
東アジアを結ぶ貿易の一大拠点として繁栄した。


「琉球絵巻」 本島西岸の遠景と、泊村、那覇、長虹堤

19世紀初頭、琉球を探査に訪れたイギリス海軍のバジル・ホールは、
「琉球の人々はいちじるしく文明化している。
 人々は無欲で、完全に満足しているように見える。」と記し、
ナポレオンに「琉球は武器も貨幣もない邦である。」ことを教え、
ナポレオンは、「この世界で武器を持たない国があろうとは夢のようだ」と
感嘆したという。


『球陽』には
首里那覇あいだには海があって、
 隔たっており、冊封使(中国の皇帝が派遣する使節)が来るごとに
 船を集め杠(船橋)をつくって渡していた・・・
 (1450年に琉球国王に即位した尚金福王は、往来が不便なため)
 国相懐機に命じて長虹堤を築かせた・・・
 石橋七座と安里橋に三座を設けた・・・」
という記述がある。

 ※球陽(きゅうよう)とは、
  1743年~45年に琉球王国の正史として編纂された史書である。


葛飾北斎の琉球八景図「長虹秋霽」


当時の那覇は、
点在する浮島と呼ばれる島から成っていた。
浮島は、現在の那覇市の、久米および松山付近に相当する。

いわば、那覇は、松島に似たような
風景であったようだ。
そして、浮島と首里を結ぶ
「長虹堤」と呼ばれる、
いかにも、その名の通り「虹の架け橋」の如き
堤防と橋からなる約1kmもの海中道路があったのだ。

浮島、前島、仲島、仲泊、泊高橋、奥武山、
鵝森(ガーナムイ)、泉崎、十貫瀬、仲毛など
当時の那覇市の小島の点在する入江風景を反映した地名が
多く残っている。

しかし、
土砂の堆積によって、王国末期には本島につながり、
近代以降、海が埋め立てられ、完全に地続きとなって、
この原風景は、消失され、
那覇の面積の大部分が、
昔は海であったことを想像するのは難しくなってしまった。


すっかり地貌を変えてしまった那覇

かつて那覇は浮島だった




浮島と首里を結ぶ「長虹堤」  (今)↑(昔)↓




さて、
この浮島には、辻(チーヂ)と呼ばれる地に、
17世紀、尚真王時代に始まった遊郭が存在した。

浮島の辻・遊郭は、
約300軒近くある妓楼からなり、
女性のみで自治行政された世界であった。

ジュリ(尾類)と呼ばれ、
辻に生きた大勢のいわゆる娼妓・芸妓は、
琉球王府を支え続けた。
中国からの冊封使、薩摩からの在番役人、商人などを
もてなし、慰安する役目を担ったのである。

辻の女性は、アンマーと呼ばれる抱え親を筆頭に、
アンマーが産んだ子供、貧困のため幼い頃に売られた子などで
擬制的家族を作り、
人間社会における義理・人情・報恩を第一の教えとして生活した。

また、神への祈りと祭りを取り仕切る
「盛前(ムイメー)」と呼ばれる神職を中心とした
女性による女性のため組織を整え、
二十日正月の「ジュリ馬」行事を始め、
言葉・立ち居振る舞いから、衣裳・髪型・料理・芸能に至るまで
独自の文化を創り上げたのである。

「ジュリ馬」には、その起源を伝える伝説が残っている。
王族に連なる首里の身分ある娘、
一説にはウミナイビ(王女)あるいは姫が、侍女を連れて、
王朝を守るためジュリとなり、
遊女の身ながら、親兄弟の王家の者と会いたいという切なる願いから、
辻の遊女を集めて華やかな尾類馬行列を催し、
賑わいに紛れて密かに親兄弟と互いの姿を見せ合う機会を作った
という話である。

彼女らこそが、流歌、三線、琉球舞踊、
沖縄の芸能の継承者なのだ。

1879年、明治の廃藩置県によって、
琉球王国は滅亡し、450年の歴史に幕を閉じた。

この時以来、
中国から印綬された首里城の王印が紛失している。

   
1383年、明国皇帝から賜された琉球国王之印。  
現在、首里城に展示されているものはレプリカである。


しかし、辻遊郭は、琉球処分以降も存続し、
1944年のアメリカ軍による十・十空襲で那覇が焼けつくされるまで、
約400年間、存続した。


そして、この「辻」の
現在の三文殊公園の西南に、
湯屋の前」と呼ばれる森があった。
おそらく、「湯屋」つまり「銭湯」があったのだ。
湯屋は、ヤマトから導入されたシステムの妓楼で、
垢すりや髪すきに加えて春を売る湯女(ゆな)たちがいた。
その湯屋は、長浜とよばれる長大な海岸線にあった。

そして、その南端に
当時の豚肉(わぁーぬしし)市場があった。


「湯屋の前」と呼ばれる森の南に屠場(豚肉市場)がある。


三文殊公園辺りの岩礁地帯の奇景、
湯屋の前に植えられた琉球松の防風林、
その木々越しに見える赤瓦の遊郭の佇まい。
そして、長浜の美しい白砂の浜。
昔を想像するに、きっと美しいところだったに違いない。

さて、
すでに、勘の良い方は、
お気づきのことと思われるが、

上に、琉球の物語が、
『千と千尋の神隠しの物語』に、
リンクするキーワードを赤字で示したが、

その関連性は次のとおりである。


長虹堤 =「海原電鉄」は遠浅の海の中を走る電車架空の鉄道会社。
       水上のいくつかの浮島のような駅がある。

浮島の辻・遊郭 =八百万の神をもてなす湯屋・油屋。
王印が紛失=銭婆が持つ契約印。ハクが魔女契約の印を盗んだ。
湯の前 =海岸に建つ湯屋・油屋。
銭湯(鼓楼) =「湯・婆婆」と「銭・婆」をたすと、「銭湯」である。
豚肉(わぁーぬしし)市場 =千の父母は豚に変えられ捕らえられた。


 波上宮(辻の東端に位置する。若狭)
琉球王国の総鎮守。
人々が海の彼方の海神の国(ニライカナイ)の神々に豊穣や平穏を祈った聖地が
波の上の崖端で、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まる。



油屋に八百万の神が訪れたように、琉球の浮島・辻遊郭は、万邦の客人をもてなして栄えた。


「海原電鉄」 「中道」とかかれた表示板がつけられている。
中道とは、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念に偏らない
自由な立場による実践をいう仏教の言葉である。