続・父から息子へ愛の手紙~Jonathan Livingston Seagull | ☆Dancing the Dream ☆

☆Dancing the Dream ☆

Let us celebrate
The Joy of life ♡
with ☆Michael Jackson☆

この著書を翻訳された五木寛之さんは、


「かもめのジョナサン」の感想として、ーーー


天国に昇ったかもめは、何故、「純白に輝くのか?」

潜在的に何かがある。・・・  と最後に述べている。




*** ****** ***


五木寛之さんは、この物語が、


「食べること」と、「性」に関して注意深く排除されていて


「群れ」を低く見る感覚にある種の違和感を持たれ、


70年代の社会の願望が投影されていて、恐ろしい予感を感じると述べていた。


その戦慄する感覚が、何故、「純白に輝くのか?」という


疑問に繋がり、潜在的に何かがある・・と直感しているのだろう。


ーーー何故、純白に輝くのか?


別の意味で、私は同じような疑問を抱いた。。


なぜ別の意味なのか・・と言うと、私のような凡人にとっては、


「食べること」と、「性」に関して言わずもがな、


どう物語で排除されて表現されようとも、飛ぶ夢を一心に追おうが、


当たり前のことだからであるのだ・・読書も自分を通してしか読めない・・(^▽^;)


私も、自己投影し、五木さんも、自己投影して読むしかないのだ。


ーーー何故、純白に輝くのか?・・私は、こう考えた。。。


リチャードバックは、離婚し、


家族とは疎遠に暮らしていた。


そして、末の娘が15歳という若さで事故死したのだ。


かもめのジョナサンの全体に漂う一種独特の感覚は、


「死」についての著者の思考の旅のようなものから


醸し出されているのではないかと思う。



彼は、自分の心が命じるままに離婚し、


身近で我が子を守るということができずに、最も幼い娘に死なれたのだ。


この時の彼の心情は、子を持つものなら真に迫って理解できる。


おそらく、自分自身が受けた衝撃とともに、別れた家族、殊に兄弟を突然失った


遺された子供達が受けたショックを考えずにはいられなかっただろう。


長い親子関係の空白期間が横たわり、彼は子供達と悲しみを共有し、


共に泣き、慰めてやることもできないジレンマに陥っていたかもしれない。



飛行機乗りにとって、「死」は、飛ぶことの爽快さと紙一重に存在するもの。


しかし、この末娘の死ほどリアルに彼に迫ってきた「死」はなかったのではないか?


そして、彼自身の「生と死」についての思考が、止むに止まれず、筆を取らせた。


主人公のかもめに、実の息子ジョナサンという名を名づけて、


ジョナサンの生き様を通して、それを語らせたのだ。


主人公ジョナサンが、実の息子ジョナサンなら、


彼の愛弟子のフレッチャー・リンドバーグFletcher Lindberghは、


事故死した末娘のべサニーにあたるのではないかと、私には思われる。


フレッチャーは、高速飛行中、子供かもめを避ける為に、岩の崖に激突する。


そのシーンは、「その岩は、別な世界に通ずる、巨大で堅固な扉のようなものだ」・・


と表現されている。ーーー


Fletcher Lindberghという名は・・・


「Fletcherは矢印」・・つまり、「継続してある方向へ進んでいる」状態で、


生き続けていることを表わしているのではないか?


現に物語の中の表現では、ーー「死んだかもめが生きている!!」ーーのだ。


Lindberghは、偉大な飛行家、チャールズ・リンドバーグを示唆しているのだろう。


彼は、大西洋、北太平洋を制した飛行機乗りであると同時に、心臓病を患う


姉のような病の治療法を見出したいという思いから、初の「人工心臓」開発に


貢献する。・・・彼にとって、ベサミーの「死」がどういうものなのかを、


この名、Fletcher Lindberghに、とても深く込められていると感じる。


昇天したかもめが「純白に輝く」のは、ーーー


幼く死んだ娘は、「食」や「性」とは遠い世界に行き、 「魂」は継続して


純白に輝き生きている。。かもめは、愚かな迷いや失敗を繰り返しつつ、


自分自身の魂に忠実に飛び、いずれは、同じ世界にいくのだ。。


そうであって欲しい。そう、彼は「死」というものを考えたのではないだろうか?


その思いを伝えるために、離別した兄弟を失った我が子、


「ジョナサンへの手紙」を書いたのではないかと思う。


創造は、どのように空想的なものでも、生身の人生が反映していると思うのだ。


彼は「かもめのジョナサン」を書き終えた後、「もう何も言いたいことはない」と、


暫く筆を取ることはなかったという。



五木さんの感じる・・・・なんとなく、恐ろしい予感を感じる


「食」や「性」の欲を封じ、「愚かな群れよりも、崇高な悟りの境地に達したかもめ」・・


それを、自分に投影して実行しようとしたのが、


オウムの「村井秀夫」のような若者だった。



彼はとっても純粋で真面目そうな青年に見えたが、


奥底では、自分自身というものに真面目ではなかったのではないかと思う。


または、彼のような優等生で努力が報われ、成果を得てきた人間は、


真面目に取り組んで、どこまでも満足いかないことに、絶望してしまったのか?


「真面目」とは、「じっと見つめるさま」を表わすのだ。。。


彼は、自分をじっと見つめる眼を殺してしまい、他人に丸投げしたのではないか?


「フレッチャー・リンドバーグ」とは、まるで逆で、「魂」は死んでいたのではないか?


愚かしい自分を見つめ続けるのは、とても苦しいことだ。


しかし、自分の魂の底にも、全てのものにも、なにかとてつもなく美しいものが


既に備わっていることを感じられれば、また、共感する仲間がいれば、


励まされ、救われ、いつか心は晴れて、身は軽く、


ジョナサンのように、また、好きなことに打ち込めるのではないかと思う。


年を経ると、身体はだんだん衰え、思うように動かなくなるけれど。。


けれど、自分の身体のことは、だんだんコツがつかめてくるようにもなる。


めっきり衰えたと感じる時、「身体は、なんでも知っている」と思う。


若い頃は、そんなことは考えもしなかったのに・・・(^▽^;)


ヨーガをして、静まったこころで身体に眼を向ける時間は、心地よい。


私にとっては、なにも最終解脱しようなどということではない。。


一時期、オウムのおかげで、というか・・マスコミのおかげで、


ヨーガが白眼視されていたことも、超迷惑だった。


マイケルのこともそうだったけど。。。


最近TVも雑誌も見ないし、流行をチェックすることもしなくなった。。


しかし、気になるのは、皆が楽しそうに盛り上がっているピグだ・・よだれ


ご覧のとうり、冬だというのに、ノースリーブのままだ。


「おにぎりが欲しいんだな」状態。おにぎり


たぶん、夏まで裸の大将のままだろう。。汗






今日も寝違えて痛い肩を揉みつつ・・・の


与太話にお付き合い頂きまして、


誠にありがとうございましたおじぎ