一次情報が内包する物語を、発見し、語ること。 | Esquire編集部より。

一次情報が内包する物語を、発見し、語ること。


かつてNTTに勤めながら独自に研究を続け、39歳でMITの教授になり、
『タンジブル』というコンピュータにおける画期的な
インターフェイスを開発した石井裕さんは、
とあるインタビューでこう語っています。


「私は宮沢賢治の『永訣の朝』という詩が学生時代から大好きだったんですが、(アメリカ赴任前に)その肉筆原稿を初めて見ました。私が読んでいた文庫の中で、『永訣の朝』は等間隔の9ポイントの活字で表現されていました。ところが肉筆原稿は、書いては直し、消しては書き、が繰り返されていた。それは、彼の苦悩を静かに物語っていました。インクの軌跡を見つめていると、ペンを握る彼の太い指、ごつごつした手が見えてきました。しみだらけの原稿用紙には、彼の体の痕跡や苦悩のプロセスが塗り込められていました。
 こういう迫力が、標準化・電子化されたテキスト・コードではまったく伝わってこないんです。デジタルの世界は乾いていると思いました。『どれだけ情報を削ぎ落とし、圧縮できるか』という技術効率至上の考えが、『人間的なぬくもりや感動を伝える情報の中身は何なのか」』という本質的議論に優先していた。」(上記HPより一部抜粋)


この石井さんの発言は、
ぼくら雑誌編集者にとって2つの重要な事柄を示唆しています。
ひとつは、「紙の魅力」。
そしてもうひとつは、「一次情報が持つ情報の密度」です。

『エスクァイア日本版』はこれまでも、個々の編集者が
価値のある一次情報を「発見」し、そこに「物語」を見いだし、
それをナラティヴに再構築し、表現するという
「ストーリーテラー」の役割をこなしてきました。

一次情報、それも特に、知られていなかったり
消費されていない一次情報には、普通、
ほとんどの人がたどり着けない、
あるいはそれとは気がつかないまま通り過ぎてしまいます。

「一次情報/二次情報」、あるいは「良質の情報/そうでない情報」は、
web上のみならず、おおむね「均質化/並列化」された状態で漂っています。

さらには、たとえGoogleで「賢治、肉筆、永訣の朝」と検索し、
肉筆原稿の画像が表れたとしても、
上記の石井さんが発見した「苦悩」と、それに続く
「人間的なぬくもりや感動を伝える情報の中身は何なのか」という思いを
追体験することは、どこまで可能でしょうか?

2010年代以降も『エスクァイア日本版』に存在意義があるとすれば、
一次情報(だけ)が持つ、情報の密度というか、物語性を見つけ出し、
『それだけでは終わらないコンテクストを編み出し、
 そこから”ある”テクスチュアを抽出する』
(『』部分がエスクァイアの秘伝!)という作業を
丁寧に続けて行くことではないかと、ぼくは思います。

ネットであれ既存のマスメディアであれ、
比較的パッシブな態度で摂取する情報が、
日々のコンビニやスーパーでの買い物
(究極の二次情報の集積!)だとすれば、
『エスクァイア日本版』は、「まだ流通ベースには乗っていない、
最新技術と伝統製法をバランス良く取り入れた、
産地直送の干物(無添加)のお取り寄せ」ということになるでしょうか。

要するに『エスクァイア日本版』は、一次情報を丁寧に加工し
ときには、価値付け/価格付けの根拠となりうることで
他誌との個体識別を可能にしてきた雑誌、と言えると思います。

そうなると、

1:30代後半から40代のインテレクチュアルな「大人の男性」が、
 「既成のおにぎりやお弁当ばかりじゃまずいでしょ」
  という危機感を持ち、積極的に行動
 (情報摂取)をする意志を持ち続ける。


2:30代後半から40代の世代に向け、
  ラグジュアリーな商材を「知的な印象で」訴求したい
  クライアントは、今後もなくならない。


という2点が、『エスクァイア日本版』存続の前提、となるのかな???