年内の講座は昨日ですべて終了。

年末進行のライティングも今週でほぼ終わり。


あと年内は、個人的な書きものをしたいなーと思うのであります^ ^


と、ひとまずのゴールが見えてきたところで振り返ってみる^ ^


さてさて。

先日、楽しみにしていた踊りの公演を見にいってきました。

櫻井郁也氏のソロ公演。


演劇とか、音楽系のライブは観に行くことはあったけれど

ダンスの公演というのははじめて。


イメージとしては、パフォーマンス・アートというのに近いのだろうか。

「コンテンポラリー・ダンス」と呼ばれていたりするようです。



感想&覚え書き^ ^



言葉による「意味」に頼らないぶん

観る側は、受け取り方を制限されないんですね。


最初、どう観たらいいのか、戸惑うような気持ちになったけれど

でも、「響き」として観じようとしたら広がった。


たぶん、表現する側にも、言葉に制限されない自由さはきっとあるのかもしれない。


けれど、言葉という物差しがないぶん

微細な衝動、伝えようとすることへの敏感さは不可欠なのだろう。


コレだというカタチ。

ピタリとくる響きを、場と共鳴しながら探すのだろうか。


踊りそのものがどう、というのは専門家に任せるとして。


イノチのドキュメンタリーを観たようなあと味。


なぜか「哀しみ」の感覚が胸に残った。



「哀しみ」という気持ちってなんなのだろう。

そんなことをふと思う。


「哀しい」って感じるときって、なんで哀しくなるのでしょうね?

大切なものを失ったときなどは、確かに哀しいですよね。


あとは?


伝えたいのにその術を持たない
何かしてあげたいのにできない
理解してほしい人にわかってもらえない
ひとつになりたいのになれない


そんな状況も、切なく哀しいですよね。


自分自身が何かに失敗したりすることより
自分以外の誰かを強く意識したときに「哀しみ」は大きくなる。


「哀しみ」を恐れると
人と深くつながることを恐れてしまう。


人と深くつながることを恐れると
深くつながらなくてもいい、距離感を保ったかかわり方を選択する。


つながりたいと思ってはいても
奥底の意識は怖がって距離をおこうとしていたりする。


すると
気持ちだけはつながっていこうとするけれど
現実的に行動が伴わなかったりする。


あるいは
物理的に行動を起こしたとしても
心は違う次元にいるような、そんなかかわり方になってしまう。


手を伸ばしても、心は触れ合うことができない……。
こんなに近くにいるのに。


身体と心って
こんなふうに別々に動いてしまうことがある。


というか、こういうことってけっこう起きているのだと思う。


「ゴースト」という映画があったけれど。

亡くなった恋人との交流が描かれていましたね。


肉体を持たないゆえに、そばにいることを伝えられずにもどかしい思いをしていたゴースト。


身体とは別の動きをする「心」って、この物語の中のゴーストの気持ちに近いのかもしれない。

その「心」がゴーストになるとも言えるけれど。


身体って現実そのもの。
身体があるから、温もりが感じられる。


人って
その温もりを求めながら
その温もりを怖がっている。


恐れの先に
つながることの喜びがあることも知っていて。


でもなお、哀しんだり儚んだりしてしまったりして。


哀しみをリアルとするのか
温もりをリアルとするのか


肉体を持って生きる充実感って
絶対的に後者、ですよね。


イノチの器である身体。
心との身体とのつながりを選びたいと思ったのでした。



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