当時私は高校生でした。

神戸には母の実家がありましたが
全壊してしまいました。

食べるものがないということで、堺市から兵庫県の東灘区まで

自転車に積めるだけのお水や食料救援物資となるものを積んで

父と向かいました。

介護の為母が神戸におり、そこから連絡が入りました。

「生きてる。」という連絡にどんだけ安堵を感じたか分かりません。


いつもは電車や車で2時間ほどの神戸がこんなに遠いのかと思い知りました。

自転車に荷物を積めるだけ積んでいるのでとにかく重く、武庫川の土手を超える頃は
疲労困憊でした。

そして、そこを過ぎるあたりから景色がどんどんと変っていきました。

高速道路が倒れているなんて、信じられないし

人々の見た事ないような表情と光景に言葉を失いましたし

恐怖感で押しつぶされそうになりました。

他の地域のナンバーの車の人が小さなアンパンを等を500円~1500円で販売していて
驚きました。。

甲子園あたりで、重い自転車をこいでいたため股ずれが起こり
血が滲みました。

でも、痛さは感じませんでした。

倒壊した建物や高速道路を迂回しながら進み到着したのが14時過ぎでした。

6~7時間程かかったようです。

持ってきたものには限界がありました。

ご近所に分けられるだけ分けて、人目につかないような形で食事をしました。

祖父はテレビが落ちてきて骨折をするだけで命は助かっていました。

家は滑り台のように傾いていました。

祖父は大変喜んでくれ、飲み物は出せないけれど・・と

みかんをひとつ私に渡しました。

そのひとつのみかんでも
貴重な貴重な「みかん」水分でした。

そこからしばらく私はボランティアとして働きました。

施設や会館で、色々な支給がありますが

堂々と受け取れるのは、昔から地元に住んでいるような人たちで

母のように介護に戻ってきているような人は(外から来ていた人)

受け取りづらかった(もらいにいける状況ではなかった)というのが現状でした。

なので、私と父が運んだ食料がそういう方達にとても喜ばれました。

そして帰る時がきました

来たのが自転車なので、帰りも自転車です・・。が

甲子園まで戻った時に力尽き、電車で戻り

後日また甲子園から堺市まで自転車で戻りました。

さらりと書きましたが、今でもさまざまな事を鮮明に残している事柄です。

娘にも伝えていきたい事柄がたくさんありますので
おりをみては話しています。