こんにちは、となみなおこです。

このところ、
実際にお会いする方や
テレビでお話を伺う方から伺う、
壮絶な人生経験のお話。

子供時代に虐待を受けたこと、
十分に食べるものを与えられなかったこと、
大人に守ってもらえなくて
命の危険を感じたこと、
無一文になったこと・・・

そして、その方たちは、
その経験を乗り越え、
そこから力を振り絞って生きて、
すべての経験を引き出しにして、
今のご自身になっていらっしゃいます。

「自分の生存」のための緊迫した状況を
乗り越えられたそのご経験は
本当にすごいことで、
それを乗り越えられて得られたものや
鍛えられたものは
本当に大きいと思うのです。





それに比べると、
例えば私の場合は、

厳しいながらも両親に愛を与えてもらっていて、
両親と無理やり引き離された経験もなく、
食べるものに困ったこともなく、
家を追い出されたこともなく、
自分で自分の命を守るための判断を瞬時に迫られるような
緊迫した状況にいったこともない。





こんなときに、ふと思いがちなのが・・・

こんな「苦労が足りない私」は
悩む資格はない。


私はこんなに恵まれているのだ。
すべてに感謝するのが筋だろう。
世の中にはもっともっと大変な人がいる・・・

ふむ・・・


ただ・・・・

思うのです。

そういう苦労なくとも、
私は異様に自己肯定感が低かったのです。

役に立っていない私は
生きている価値はないのではないかと、
根っこのどこかで思っていて、
とてもしんどかったのです。

甘い環境にいたからだと、
苦労してないからそんなところで悩むのだと、
そう言われたとしても、

私にとって
そんな風にしんどかったのは
まぎれもない事実

なのです。

誰かの苦労と自分の苦労を比べて、
「苦労が足りない」と思うことは、
あまり意味がないような気がするのです。

もしかしたら、
もしかしたらですよ、

生きるのが本当に大変だった方は、
自己肯定感の低さなどに
悩むことはなかったかもしれない。

確かに、
「生きる」危機は
本当に大きな危機です。

実際に遭遇されたときに
味わった恐怖感や不安、
ショックは、
とてもではないが、
想像しきれません。

た・だ!!!

それは、それ。

これは、これ。

なのではないか、と。

壮絶な生存体験と、
自分が抱えるしんどい想いを
比べて、
自分の想いを
「持つべきものではない」と
却下しても意味ないのではないか、と。

だって、
私にとっては、
そのしんどさがあるのは
事実だから、です。

まずは、
何か自分の中に発生したしんどさと、
それが発生したという事実を
自分は受け止めたらいいのではないかと
思うのです。

すべては、そこから。

「私は今、辛いのだ」

そこを受け止めてみて初めて、
次に行けるのではないかと、
思うのです。

そうして、
私は心揺さぶられながらも、
自分だけは自分自身を見捨てないように
心がけていこうと思っています。