私のSTORY 「2週間、休む?」~30代半ばの転機~

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 駅からオフィスまでは歩けば10分強の道のりなのに、
タクシーに体を運んでもらうようになってどれくらいになるだろう。
座席に全体重を預け、初乗り料金を財布から出して手のひらに握り、
そして外は見ない。タクシーから降りてエレベーターに乗れば
19階まで運ばれる。数分の出勤時間オーバーも常習犯。フロアーに入れば、
同僚たちは皆デスクに向かっている。背中を丸め、咎められないように
トーンを落とした挨拶をする。席にたどり着き、指先でコンピューターの
始動ボタンを押し込んで、また1日が始まった。

 会議室がぼんやりと目に入る。半年前に上司から
「君ならできると思う。やってみない?」と未経験の広報担当を
言い渡された場所だ。その横では、それまで同じチームで
仕事をしてきた仲間が、言葉を交わしている。私がいなくても
業務はまわっていることをまるで見せつけられるように感じる。
マウスを手で操作しているのに、頭が追うのはそんなものばかりだった。

 大きなイベントが続いた夏が終わり、部の業務の中心は毎月の
プロモーションに戻っていた。それでも私には、自分の限界を
とっくに越えてもなおピークを記録更新し続けているように感じる
毎日だった。この半年、自分の業務についてこれでいいのだと思えた日なんて
1日だってない。咳喘息をおしてアメリカにプレスを連れていくイベント
から帰って以来、駅からタクシーでしか出社できない日が増え、そして、
数分の遅刻も増えていた。それでも、私は毎日、頼りになる広報担当の顔を
見せようとしてきたのだ。

 その日の部会では、会議室の端の席に座った。身体がいつになく重く感じ、
自分の頬が引きつって笑えないことに気づいていた。
 会議が始まった。順々に担当業務の報告をする同僚の声が、
遠くに聞こえ、頭に入らない。自分の報告は、低い声で下を向いてしか
話せなかった。いつもと違うって思われたかもしれない。いや、誰も気づいて
いないのかもしれない。
 会議も終わりの頃、やけに力を入れたような口調で部長が話し始めた。
「最近、みんなの出社時間がルーズになっていると思うの。気を
引き締める必要があると思う。」
 私一人に向けて放たれたように聞こえた彼女の言葉が耳に入った瞬間、
頭の奥でプツッと何かの糸が切れたように感じた。体の力が抜け、
顔の表情も支えられなくなった。その後の部長の言葉は何も覚えていない。
発言をしている彼女の姿は見ることができなかった。気づいたら
席に戻っていた。しばらく席から動けなかった。半年間、訳も分からず
頑張ってきたのだ。その私に、更に追い討ちをかけるのか。
とどめを刺されたと思った。

 もうだめだと受け止めたら、最後にエネルギーが湧いたのかもしれない。
左手に小さくたたんだタオルハンカチを握りしめ、部門の責任者の部屋の
開かれた扉の位置から声をかけた。
「少しだけいいですか?」
顔を上げた上司は、私の顔から何かを読み取ったのだろう、すぐに
手を止めて立ち上がった。扉を閉めた私にソファーを勧めて目の前に座った。

「どうした?」
「もう、だめです。」
引き継ぎがたった3日間だったこと。日常業務に時間がかかりすぎるが
正しいやり方がわからず途方にくれていること。私はこれまで誰にも
話せなかったことを話し始めた。あの大きなイベントの仕切りの業務は
すべて手探りで本当に苦労したこと。アメリカから夜中に見よう見まねで
書いて送ったプレスリリースは時間がかかりすぎて採用されず、
自分を責めたこと。彼は私の話をさえぎることなく聴いてくれた。
手の中のタオルにかかる圧が少しずつ緩んでいった。
「そうか。」
全部聴いて上司は言った。
「2週間、休む?」
「はい。」
すがるような即答だった。

 2週間の休みを終えて、菓子折りをいくつか持って出社した。
休みの間業務を一切頭から外して過ごしたからこそ湧いた感謝を示す菓子折り
の袋が大きくて、駅からタクシーを使った。久しぶりにタクシーの窓から
朝の風景を見た。2週間前に逃げるようにして去った場所に戻るのには
勇気が必要だった。
「おはようございます」
その勇気を隠すように少し目立たない声色で挨拶をして、席についた。
同僚の視線は思いの外柔らかいように感じた。コンピューターの始動ボタンを押し、
2週間の間に増えた机の上のメモやら書類やらを手で触った。いつも仕事を
始めるときのように体制だけ整えてすぐ、部屋でPCに向かう部門長の姿を確認した。
今、行って大丈夫だ。周囲に気付かれないような深呼吸をしてから菓子折りを
持って立ち上がった。
「失礼します」
上司は顔を上げた。
「おはよう!どう?体調は?」
相変わらず彼は安定している。私は立ち上がった彼にまず感謝を伝え、
菓子折りを手渡した。そして、彼が示してくれたソファーに座り、
休みの間に気持ちが落ち着いたことを伝えた。うなずきながらにこやかに
聞いていた彼は柔らかく切り出した。
「で、どうすることにした?」
2週間休みをあげるけれど、休み明けには、今後どうしたいかを決めて
くることという約束をしていたのだ。
「辞めさせていただきたいと思います。やりたいことが見つかりました。」
この2週間の間に、心を動かされた出逢いがあり、それに向かって
進んでいきたいことを伝えた。短い間をおき、彼は「わかった」と言った。

席に戻ったとき、私はあの上司から一度も責められなかったことに気づいた。