2020年1月22日〜2月2日、千葉県の奥深い場所で10日間(11泊12日)の瞑想修行に行ってきた。備忘録も含め、体験を記録しておきたい。(結構真面目に書こうと思う・・・)

 

ヴィパッサナー瞑想。

ヴィパッサナーとは、パーリー語で、

 

「ありのままを観察する」

 

見せかけに惑わされることなく、真実を観るという意味。

 

ヴィパッサナー瞑想は、宗教的儀式でもなく、宗派的なものもなく、インドにおける最も古い瞑想法の1つであり、2500年以上も前から「心の手術」として伝えられているそうだ。

 

1度は失われたが、「ゴータマ・ブッダ」によって再発見され、現在世界で最も広く行われている瞑想法だそうだ。

 

まだまだ修行が足りない私のような者が「ヴィパッサナー瞑想とは何か?」を多くは語れない。詳しく知りたい方は、こちら

 

 

<体験のきっかけ>

 

数年前に、友人経営者が体験したというのを聞いていたが、特に勧めがあったわけではなく、興味は特段湧かなかった。変わった世界があるのだなという程度だった。しかし、日常生活で様々なことを感じ、考える中で、この瞑想修行が自分に何かもたらすのではという漠然とした想いが日増しに大きくなっていった。

 

そして、心の鍛錬や心の浄化など、自分の心の変容が必要だという場面が増え、この瞑想修行への興味も、それとともに強くなった。人に教えを請うたり、書物から知識を得るだけでは、足りないという事に気付き、自らが体験(修行)で得ることが肝要であるという解に至った。

 

 

<申し込み>

 

通常、コースの申し込みは2ヶ月前に行う。どのコースも、申し込みは2ヶ月前から受付が始まる。人気があるので、すぐに満席になってしまう。こちらから申し込みを受け付けている。申し込みをされる場合は、紹介者欄がある。私の友人は、私の氏名を記入すると、素晴らしい優遇が・・・何も受けれない。

 

体力や気力に自信の無い方は、申し込みをしないで欲しい旨が記されている。

また、コースに参加する方は、コース期間中、以下の戒律を守らないと参加する事はできない。

  1. 生き物を殺さない。
  2. 盗みを働かない。
  3. 一切の性行為を行わない。
  4. 嘘をつかない。
  5. 酒・麻薬の類を摂らない。
  6. 正午以降、食事を摂らない。
  7. 踊りや歌などの娯楽を避け、装身具などで身を飾らない。
  8. ぜいたくな高い寝台で眠らない。

 

 

<場所>

 

世界中にセンターはあるが、日本には京都と千葉の2ヶ所にある。私が行ったのは千葉のダンマーディッチャの方だ。房総の茂原近くの丘高い場所にある。四方が森に囲まれ、一度入場すると全く下界を伺い知ることができない。サッカーコートが2〜3面の面積に、幾つかの建物が立っている。

 

 

 

 

 

 

<プログラム(スケジュール)>

 

  4:00 起床
  4:30 ~ 6:30 瞑想
  6:30 ~ 8:00 朝食、休憩
  8:00 ~ 9:00 グループ瞑想
  9:00 ~11:00 瞑想
11:00 ~13:00 昼食、指導者への質問
13:00 ~14:30 瞑想
14:30 ~15:30 グループ瞑想
15:30 ~17:00 瞑想
17:00 ~18:00 休憩
18:00 ~19:00 グループ瞑想
19:00 ~21:00   講話・瞑想
21:00 ~21:30 就寝

 

基本的には毎日、同じスケジュール。

瞑想など座して動かない時間は1日12時間。

10日間 × 12時間 = 合計 120時間の瞑想

 

それ以外の時間は、睡眠、食事、休憩、入浴、トイレ。

 

 

<初めての体験① 下界との連絡が一切禁止>

 

センター内から、外への連絡、外からセンターへの連絡は、全て禁じられており、コース期間中、誰とも連絡を取り合うことはできない。

 

海外出張等で長期に渡り会社や自宅を留守にすることはあっても、全く連絡がつかなくなるという経験は初めて。出発1週間ほど前は、不在を踏まえての様々な対応をしておかなければならなかった。公私ともに、複雑に仕事が増えている時期で、かなりタイミングが悪く、その間に起きうる可能性のある出来事など先回りして対応していく必要があった。

 

しかし、終わってみて気付いたことは、しっかりと準備しておけば10日程度自分が連絡を絶っても、会社も自宅も問題なく回る。これは、自分にとってかなりプラスの経験だった。会社においては、自分無しで機能する自発的な組織を作ろうという意思が更に湧くことになった。

 

 

<初めての体験② 全てのデジタル機器の使用禁止>

 

会場に到着すると、携帯やパソコンなどの機器は全て預けなくてはならない。1994年にセルラー電話を持ってから26年間、一時(ひととき)も携帯を肌身離さず持っていた自分としては、かなりのチャレンジだった。スマホ依存と言っても良いほど、今はiPhoneが自分の身を離れることは無い。それが、都合12日間、全く使えないというチャレンジである。

 

外の世界から隔離され、テレビやラジオ、新聞もない世界。取り残された気分になるが、何もない状態が以外にも苦しさは感じなかった。休憩時間にスマホがないことは、かなり退屈であったが、慣れてみれば大したことは無かった。

 

いわゆるデジタルデトックスである。この体験で気付いた事は2つ。

 

・普段、如何に無駄にスマホを触っているかという事を身を持って体験できた。現在、スクリーンタイムでは平均3時間ほど使用しているとなっている。これは、半分くらいに削減出来そうである。そうすると、月間45時間の余裕が生まれる。貴重な時間を確保できる。

 

・デジタル機器が溢れかえっている現代において、完全にスマホからデトックスする事は不可能であるという事も同時に再認識できた。加えて、更にスマホに依存するサービスや商品が世の中では、拡大し続けている。そんな中、如何にスマホから離れるかというサービスや商品が、必要不可欠になって来そうだ。新たなビジネスとして創案するのはあり、という気づきを得た。

 

 

<初めての体験③ 1日2回のビーガン食>

 

コース期間中(11泊12日)は、食事も厳しく制限されている。もちろん、酒・タバコは禁止で、肉・魚・貝類など、生き物を食べることも許されないので、基本は精進料理、ビーガンのように、野菜中心の食事である。1-2日なら経験はあるが、11日以上も続けたことは過去に一度もない。

 

食事は、朝食 6:30 昼食 11:00の2回のみ。玄米、一汁一菜である。一菜と言っても、白菜の浅漬、人参の酢漬けなど、簡単な野菜である。これに薄味の味噌汁。玄米の味を変えるために、梅干や味噌、調味料等も用意されている。毎日、メニューは少しずつ変わるが、基本は同じパターン。

 

この食事を毎日、奉仕者(過去にコースを受けた生徒)の方々がご奉仕してくださる。もちろん、彼らは料理のプロでもなんでもない、包丁を初めて持ったという人がほとんどのようだ。その方々が作ってくれる。普通に考えると、美味しいはずがない・・・と思うが。

 

初日、2日目は、「ま〜、普通に食えるな」程度に思っていたが、3日目くらいか、本当に美味しくなりだしてくる。味覚が研ぎ澄まされてくるのだ。3日目の朝食、食パンがでた。トースターで焼き、なんとピーナッツバターが用意されていた。焼けた食パンにピーナッツバターをたっぷり塗り、一欠片、口に入れた。途端、香ばしいパンの香りとピーナッツバターの甘い香りが鼻に充満し、カリッという音と共に口中に広がる・・・美味すぎて、美味すぎて「ゔまいなぁ・・・」と唸った。一筋の涙がでた。普段、ピーナッツバターなど絶対食べない私の驚きだった。4日目の朝、味噌汁をすすった、その瞬間、美味しくて、美味しくて、涙がでた・・・。

 

今回の10日間のコースで、私は計5回、涙している。その2回が食事の時だった。

 

昼食の11時から、次の日の朝6時半まで、何も食べない。不思議と空腹感はなく、食事に不満を抱いたことは一度もなかった。肉を食べたい、魚を食べたい、酒を飲みたい、タバコを吸いたいと思ったことも一度もなかった。非常に不思議な体験である。

 

そして、何もないという事を腹に括ると、質素な採食料理でも十二分に満足できることに気付けた。そして、当たり前だが、身体はすこぶる調子が良いのだ。全く運動はしていないが、この11日間で4kgほど痩せた。

 

 

<初めての体験④ 一切の娯楽の禁止>

 

音楽や映画などの通常娯楽はもちろんのこと、読書やメモ書き等も許されていない。

 

娯楽がないのは承知だが、読書、即ち活字の読み書きを禁止されるのは辛かった。期間中、休憩時間はたっぷりある。その間、ベッドの上で様々な考えや想い、感情が走馬灯のように頭や心を巡らす。そんな時、ふと活字に触れたくなる。でも、読むものは何もない。気が付けば、シャンプーや整髪料、歯磨き粉などの成分表や取扱説明などを必死で読んでいた。活字中毒になるのだ。

 

何もしない時間、考える以外にやることの無い時間、自分と向き合う以外にやることの無い時間など、日常の生活では皆無であり、この時間が非常に有意義な時間となった。自分の生まれてから今までの過去を振り返り、家族や友人、あらゆる公私を振り返った。まさに、自分と向き合える貴重な時間だった。自分の人生で、これだけの長い時間を自分と向き合ったことは一度もない。その意味でも、この体験は極めて貴重だった。楽しかった時や苦しかった時の思考や感情を振り返ると、反省することが大半だったが、心の浄化に一役を担ったのは間違いない。日常の生活でも、この時間を意図して定期的に持つことは、全ての人にとって非常に重要であるという体験だった。

 

 

<初めての体験⑤ 一切のコミュニケーションができない>

 

期間中は「話す」という行為だけでなく、ジャスチャーや会釈なども禁止されている。日頃、言葉を扱う仕事をしている私は、言葉を失うことの辛さを味わった。毎日、5時間も6時間も話している自分が、10日間で一言も発しなかったのである。偉業である。

 

気付いたのは、人とコミュニケーションを取らないというのは、自分と向き合う為の最良の条件であるということだ。また、人とコミュニケーションを取らないということは、人からの影響を一切受けず、客観的に自分を見つめられる機会でもあるのだということだ。

 

10日目の最終日「聖なる沈黙」が解かれる。解かれた瞬間、言葉が溢れ出て来た。改めて、言葉の世界に生きれることに感謝するのであった。

 

 

<初めての体験⑥ 一日中、座り続ける>

 

1日12時間、10日間連続、計120時間、座禅をし続ける。これは、大きなチャレンジであった。まず、脚が痛いのは当たり前だが、2日目から持病の腰痛が痛みだした。この痛みが出ると、もうじっとは座ってられない。しかし、動かずに座さなければならない。これが辛かった。

 

最初の2-3日目は全くじっと座れず、常に足を組み替えたり、足を立てたり、動かずに瞑想することができなかった。しかし、4日目の午前4:30の瞑想で初めて、1時間だけ座り続けることができた。しかし、5日目にまたできず、6日目もできず苦しい日々が続いた。しかし、8日目になると出来るようになり、最後の方はもっと座りたいと思うようにもなった。

 

参加者は男性約30名、女性約30名、合計60名。そこに奉仕者(サポーター)が加わり、70名強となる。その全員がホールで瞑想するのだ。

 

私は前から3列目だった。どうやら、経験者が最前列から順番に座り、その後は年齢順に座るらしい。前の2列には経験者の強者が座っている。瞑想中、ピクリとも動かない。私の後ろは、私と同じ新しい生徒達、しかし後ろを伺い知ることはできない。このホールで自分だけが、静止出来ないのではと落ち込んだりもした。あとで聞くと、みんな出来ていなかったそうだが・・・。しかし、この座り続けるという行為はとてつもなくチャレンジなことであった。

 

普段トライアスロンをやっているが、泳ぎ続ける(スイム 3.8km)、漕ぎ続ける(バイク 180km)、走り続ける(ラン 42km)というのをレースでやるが、いずれも続けるという行為は苦しい。泳ぎ続けてる時は手を止めたい、陸に上がりたいと思う。漕ぎ続けてる時は足を止めたい、自転車を降りたいと思う。走り続けている時は、止まりたい、座りたいと思う。そして、座り続けている時は、立ちたい、歩きたいと思う。

 

いずれにせよ、ずっと同じことをやり続けるのは忍耐力が必要で、耐え続けるのは苦しい。しかし、やり続けて達成した時の高揚感と成長感は半端ない。だから、修行と呼ぶのであろう。そして、その修行、即ち体験だが、そこから得られるものは途轍もなく大きい。

 

これは、仕事にも言えることだと改めて気付けたのは、大いなる収穫だった。

 

今回、瞑想で座り続けた事によって、多くを手に入れることができた。

 

 

<初めての体験⑦ 1月〜2月の時期、毎日午後9時半就寝し、午前4時起床する>

 

この経験も初めて。1月の真っ暗な朝4時、誰が考えても寒々しい。宿泊棟からトイレ棟まで、歩いていく。スタートから数日は雨、建物から建物は離れているため、外を歩いていかなければならない。泥濘んだ道を歩く。長靴を履きドロドロの道を傘をさして歩く。途轍もない寒さを想定していたのだが、なぜか寒いという感覚がなかった。これも非常に不思議な感覚であった。

 

更には、睡眠だが、9時過ぎに寝るということが日常では皆無であり、寝付けないと思っていた。しかし、毎日、布団に入って眠れなかったという記憶はない。

 

ただ・・・

ぐっすり眠れた感覚もない。むしろ、考え事と夢の境が分からないという感覚。非常に浅い眠りが続く。ちょっとした物音ですぐに目が開く、だから、夢を完全に覚えている。そして、どの夢も心地よいものだった。不思議に思っていたら、5日目の講話でゴエンカ氏がみなさんがそういう体験(浅い眠りで眠っているかどうか分からない状態)をされるだろうと話していた。正直、驚いた。どういう理屈でそうなるのかは話されていなかったが、瞑想が影響しているのだと思う。

 

熟睡しなくても、日常生活にはおいては問題ないという事を気付けた。非常に短眠の人がいるが、そういう人は選ばれた人と思っていたが、意外にやれるかもしれないと思った。

また、人間は太陽が下がると眠り、太陽が上がると起きると言うのが本来の在り方なのだと改めて考えさせられた。

 

 

<瞑想>

 

さて、やっと本題に入ろうと思う。

瞑想120時間で何を得たかである。

 

むろん、たった120時間どころで解脱し、悟りを開くということはない。悟りが山頂だとすると、1合目を登った程度である。ただ、この道を進み続ければ、そこに山頂があるという実感は持てた。

 

毎日、19:00〜21:00に、このコースの創設者であるゴエンカ氏の講話がある。1時間30分、止まらずに話しが続く。それを座して聴く。その一部がこちらに記されている。

 

この内容は知識として、誰でも知ることはできる。ただ、知識として知るだけでは、実践は出来ない。「できる」を手にいれるのには、修行が必要だという解釈を説明して頂ける。その修行こそが、この瞑想である。瞑想修行で、自らが気付くことで、心を浄化する方法を手に入れるとゴエンカ氏は詠う。

 

 

では、どんな体験をしたか・・・・

 

私達が最初に指導を受けたのは、アーナパーナー瞑想と言われるものだった。それをを3日半かけて実践する。アーナパーナ瞑想とは、「呼吸に気付く」ことであり、呼吸法の瞑想ではない。自分の呼吸をただ観察する。ただ観察するのである。息が鼻から通り、鼻から出るという自然な流れを気付き続けるというものである。最初はかなり難しい、鼻の奥や上唇に風の感覚に気付こうというのだ。最初はその微妙な感覚を掴めない。しかし、少しずつ観察できるようになってくる。

 

とは言え、この瞑想で何をもたらすかなど到底理解できず。3日目までは、とにかく早く家に帰りたい、もう嫌だという邪念が強烈に湧いてくる。毎日、あと何日経てば帰れると指折り数えていた。

 

そして、この3日半は、常に頭の中に、事が浮かんでは消え、浮かんでは消えと、自分と向き合う時間となっていた。そして、休憩時間中もその事象に自分の感情を寄せれるようになっていた。その感、色んなことを思い出し、咽び泣き、涙することもあった。

 

 

アーナパーナ冥想とは・・・
 

呼吸に意識を置く際、下腹部ではなく鼻孔の下に置く。最初は鼻の範囲の三角形と、その下にある上唇までを観察する範囲とする。

 

この範囲の中であればどこでもいいのでそこで呼吸を感じ、観察していく。だんだんと慣れてきたら三角形の範囲を狭めていって、最終的には鼻の孔の入口周辺に絞る。

 

意識を置く範囲を狭くすることで観察力を高める。呼吸を感じているとき、数を数えたり息を「吐く、吸う」といった言葉は使わないようにする。

 

呼吸に対する言葉がマントラとなってしまわないように、ただ呼吸だけに意識を置くようにする。呼吸だけ、息の出入りだけ、それだけを意識し、感じる。

 

これが、アーナパーナ瞑想である。

呼吸をコントロールするのではなく、呼吸をただ観察するという瞑想方法である。

 

 

結局、これがこの修行の目的なのかどうかも理解できぬまま、4日目に入った。

 

4日目から、ヴィパッサナー瞑想をやりますとのこと。「えっ!?今までのは、ヴィパッサナー瞑想じゃなかったの?」と何も予習して来なかった自分を呪いながら、次の指導を受ける。

 

ヴィパッサナーは「ありのままを観察する」という意味。身体で起こっているあらゆる感覚に気付いてくということを繰り返し、繰り返し行う。もはや、息の観察は行わないとのこと。難しい・・・。

 

少しずつだが、集中力が増し、腰の痛みと戦いながらも、座すことができるようになってきた。

 

 

ヴィパッサナー瞑想とは・・・

 

意識を頭頂から足先へ、そして、足先から頭頂へと、体系的に動かし、出会うすべての感覚を感じることによって、体のすべての部分を順番に観察する、客観的に観察するということを、目を閉じ、身体を動かさずに行う瞑想である。

 

つまり、経験するすべての感覚、快いもの、不快なもの、そのどちらでもないもの、それらに対して、すべてが無常である、という性質を理解することにより、平静を保つこと。意識を動かし続ける。

 

どこであっても、一つの場所に数分以上、留まってはならない。この修行が機械的にならないようにする。経験する感覚の種類により、異なる方法で観察する。さまざまな、粗雑な感覚を経験している体の部分では、部分ごとに意識を動かし、観察しなければならない。

 

両腕、両足など、左右対称の場所では、そこに同じような微細な感覚があれば、同時に観察してもよい。体全体で微細な感覚を経験しているなら、体全体に意識をさっと流し、その後でまた、部分ごとに観察する。

 

 

一見、よく分からないと思う。

 

自分の解釈を含んで、説明しよう。

 

今回の修行で、もっとも記憶に残った言葉がある。「アニッチャー」という言葉だ。これは、「無常」という意味で、全ては移り変わるという意味である。人間の身体は、素粒子の数千分の1という小さな単位で構成されているそうだ。その分子が生まれては消え、生まれては消えを繰り返している。これは、科学的にも証明されている。人間はこの世に生を受けてから、成長し、老いていく。その間、身体は変化し続ける。ひと時たりとも、同じ状態であることは無い。その分子が泡状のように生まれては消える、生まれては消える。

 

瞑想中の身体の感覚を観察していると、粗雑な感覚から、微細な感覚まである。その感覚は、例えば痒みとか痛みとか、暖かさとか冷たさとか、痺れとか震えとか。そういった感覚は、時間と共に、生まれては消え、生まれては消えという変化を観察できる。

 

修行で学ぶのは、良い感覚を「渇望」、悪い感覚を「嫌悪」と呼び、合わせて「サンカーラ」と呼んでいる。パーリー語だ。そして、このサンカーラに反応しないことを指導される。人は、顔に痒みがあると掻く、座っている時に足に痛みが起きると足を崩す。これが、「嫌悪」に反応しているということ。「渇望」とは、良い体験をしたらもっとしたい、もっとしたいと反応すること。心地よい箇所があると、この心地よさをもっともっと、と反応し、助長させる。これを「渇望」と呼び、これさえも反応してはならないと指導を受ける。この「渇望」と「嫌悪」への反応こそが人の心を狂わせ、不幸せな一歩を踏み出し、他人をも不幸せにするのだと説いている。

 

瞑想をしながら、この痛みへの反応をしないことを徹底的に体験させられる。すると、痛みや痒みもアニッチャー(無常)であることを体験する。即ち、観察していると、痒みや痛みや出ては消え、出ては消えを繰り返すのである。脚の痛みも時間が経過すると感覚が変わるのである。

 

そして、自ら気付くのである。この身体の感覚は、そのまま心の感覚と同じと言えると。自らの体験で気付くのである。即ち、心に起きる「渇望」や「嫌悪」、この感覚を客観的に観察し、反応しないことが心を浄化へ導いていくことだのと気付くのである。客観的に自らの感覚を観察するとは、自分の痛みや怒り、不安や嫉妬などの嫌悪は自分のものではない、自分の身体も自分のものではない、自分はあくまで心であり、身体も感覚も自分のものではないと、観察することである。

 

そして、ゴエンカ氏はこう仰られている。修行中、新たなサンカーラ(渇望と嫌悪)は作ってはならないと。修行中や日常で、渇望や嫌悪を観察し、気付き、反応しなければ、サンカーラはできない。と同時に、反応しないでいると過去のサンカーラが湧き出し、消えていくという。これが、簡単に言うと、心を浄化させる方法ということだ。それを毎日の瞑想で、滅していく。

 

この瞑想は、心を落ち着かせたり、気持ちよくなったり、精神を安らげたりするものではないと、ハッキリと詠われている。他の方法が悪いわけではないが、表面的に心地よさを求めるだけだど、本質的な心の浄化には繋がらないというのだ。

 

冒頭、悟りが山頂だとすると、この10日間の体験は1合目を登ったあたりだと記した。これをやり続けることができれば、少しずつであるが山頂に近づけるというのが理解できた。即ち、解脱し悟りを開くことが、誰にでも出来るということなのだ。

 

 

今回、10日間の瞑想修行で様々な事を得ることができた。無論、規制、抑制された環境でしか得られなかった気付きや学びは多いが、この瞑想より、自分の心の在り方、客観視することの意味、反応しないという理解、これは実体験でないと絶対に得られなかったと痛感している。

 

本を読んだり、先達の話を聞いて、頭で解っていても、私は実践までは出来なかった。体験を通してでしか、できないものだと改めて、気付き、学ぶ事だできた。

 

 

これが、簡単であるが、瞑想修行によって得た数々の事柄である。

帰ってきて、「もう一度行きたいか?」と尋ねられたら。

 

「もちろん、行く。来年も行く」と答える。

 

それほど、価値のある体験であったと言うことができる。

興味のある方は、体験する事を強力にお勧めする。

 

 

最後に、この10日間の費用だが、無料である。

 

このヴィパッサナー瞑想は、参加者の寄付で成り立っている。

世界中のヴィパッサナー協会は寄付で成り立っており、世界中で運営に携わっている人達は全て、1人残らず、1円のお金も受け取っておられない。全ては人の善意で成り立っているのだ。

 

コース終了時、寄付(ドネーション)の席が設けられている。もちろん、1円も支払わなくても、何も言われない。僕の見る限り、3分の1の方が払っていなかったようにも見えた。私はそれなりの金額を、感謝と共にお納めした。

 

 

長くはなったが、これで僕の体験記を終わりにする。

更に深い話を聞きたい方は、個別連絡をされたし。

 

皆さんの幸せを愛と慈しみを持って、お祈りする。

 

2020年2月吉日

ヴィパッサナー瞑想修行体験者

中島晋哉