GWも今日が最後。今日は昼から打合せ。明日は通常の授業と協会の理事会。そう、あすからは通常、そのままの一日を迎える。


「そのまま」とは、文字通り、そのまま、ありのままのことであって、その姿こそが「大道」であると言うことです。


そのままと言うのは、例えると私たちが道を歩くとき、左の足より先に出そうとも、右の足から出そうとも思わず、ことさら歩こうとも思わず、歩くまいとも思わず、ただ、歩いているごときものであって、このときは歩くということのほかに、別に我はなく、実に無念である状態です。


その我を放れて、無念のところが、本来の姿、すなわちありのままであるから、別に特段難しいと言う訳ではないのです。歩くは自然に姿であってまことに容易いことです。


ところが、ひとたび、我と言うものを立て、我という分別を加えてみると、甚だ窮屈なものになるものです。いま、左の足を出したのだから、今度は右の足を出さねばならぬなどと考えながら歩く者があるとしたら、その歩くという行為は大変、難儀なものとなるでしょう。


人造の道と言うのがあるならば、いとも簡単なことを難しく考え込んでしまうものです。あ~でもない。こ~でもないと言う考えが道に迷うこととなるのではないでしょうか。


禅の言葉に「平生心是れ道」と言う教えがあります。「飢え来れば飯を喫し」「困じ来れば眠る」とも言うそうですが、これはすなわち「平生心」であり、これこそが普段からの道であるからこそいと容易いと言うものです。それをまだ、腹も減っていないのに時間だからと言い腹に飯を入れるから余計な栄養をつけることになるし、別に眠くないけど、何もやることがないからと昼間から寝るから昼夜が逆転したりと後々、道を外すこととなるのです。


人の踏むべき道とは自然の大道であります。日々、当たり前にある当たり前の姿、そのまま、ありのままであることが人の道なのです。わざわざ、道々を造り迷うこと勿れなのです。自然に生きる道の他、別に道はないのです。


そのままなるところが自らの大道であります。


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