攻城戦記第232陣     根


所在地   :青森県八戸市根城(陸奥)

                 日本100名城(05)   


   


城の説明



1333年(元弘3年)北畠顕家が陸奥国司として後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて奥州に下向した際、甲斐源氏の流れを汲む南部光行(南部氏の祖)から四代目にあたる南部師行は国司代に任じられて同行。南部師行は翌1334年(建武元年)糠部郡の八森(八戸)の地に築城。奥州における南朝方の拠点となる城であることから「根城」と命名したという。糠部郡を中心に北奥州5郡を支配した南部師行の勢力は大いに高まり、津軽地方の領地争いの裁定なども断行。この南部師行も1338年(延元3年)北畠顕家とともに足利尊氏追討の遠征軍に参加し、和泉(大阪)で戦死した。南部師行の後を継いだ南部氏五代政長は室町幕府を開いた足利尊氏から度々降伏勧告を受けるが、これを退け、1341年(興国2年)足利方の曽我師助を相模(神奈川)から追放した功により、後村上天皇から太刀や鎧などを拝領。また、南部氏七代信光は1367年(正平22年)甲斐の本領で北朝方の神大和守を撃退した功により、同じく後村上天皇から鎧を拝領するなど南朝方に忠節を尽くしたが、南朝方の勢力が弱まるにつれて南部氏の勢いも次第に衰えていった。


1392年(明徳3年)三代将軍足利義満によって南北朝が統一。翌1393年(明徳4年)南部氏八代政光は本領である甲斐から根城に移って根城南部氏の再興を図るが、その後も戦乱が絶えず不安定な時代が続く。1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原征伐の際、津軽為信に遅れをとったものの、南部氏宗家の三戸城主南部信直が天下人の秀吉から南部七郡の所領を安堵されると、根城南部氏もその配下となった。三戸南部氏は新たに盛岡城を築いて居城とするが、南部信直の嫡男南部利直によって1627年(寛永4年)根城南部氏二十二代直義は遠野に国替えとなり、根城は廃城となる。

 




  根城2   根城5



攻城戦果報告


根城は、建武元年(1334年)に南部師行により築城された城で寛永4年(1627年)に領地替えにより廃城になるまでの約300年間、八戸地方の中心で、根城跡は、昭和16年に国史跡に指定されました。その後、昭和53年から約11年間掛けて、発掘調査及び整備事業が進められて、史跡の主要部分は「史跡 根城の広場」として公園化されており、本丸跡には、発掘調査の成果をもとに、安土桃山時代の根城の様子が復原整備されていました。根城に8時くらいに到着しました。小雨が降っている中、傘をさして攻略を開始しました。駐車場脇に南部師行公の銅像がありました。



 根城1    根城3

入口に八戸城の東門が移築されていました。 本丸の見学は9時からでしたので周辺を散策しました。本丸・中館・岡前館・東善寺・沢里館等の郭や多くの堀が良好に残っていました。8時50分ころに東門で開城時間を待っていると城門が揺れました。自分が歩いたので揺れたと思い、弱い復元門だなと思いましたが、それにしても揺れている時間が長いので地震だと思いました。そんなに大きな地震ではないので、たいしたことがないなと思いましたが、実際は岩手方面で大変な被害が出た大きな地震でした。両親が心配して電話をかけてきたほどでした。


根城7   根城8
9時になり、入場料を払い攻略を開始しました。受付で日本100名城のスタンプを押しました。これで73個となり、残り27個となりました。本丸内には、主殿と呼ばれる当主が儀式を執り行った建物を中心に、工房・板蔵・納屋・馬屋などが復原されており、内部に入れば、正月の儀式の様子や、いろいろな道具類などを見ることができました。しかし自分にはあんまり興味がないために15分程度で攻略終了。他には誰も観光客はいませんでした。(2008.6.14





 
 
 根城4   根城6


 

城評価   :★★★★★★☆☆☆☆  (★6つ)

                日本100名城(05)のスタンプ