平成30年8月11日に行った『髪結いインスタレーション』
〜明治時代の古町芸妓を髪結いで再現〜
暑い中、ご来場くださった皆様、関係者の皆様
心より感謝申し上げます。
既に数人の方がブログ等で書いてくださったので、いまさらなのですが、私としては、記録として残しておくべきと思い、たぶん長々と書かせてもらいます。ようやくお盆休みなのでじっくりと。
今回の再現実演は実在の人物。
明治時代の美人芸妓「庄内や(佐藤)シン」さん。
明治18年頃の古町花街にデビューした13歳くらいの時の写真だそうです。
そのシンさんに縁のあるのが弊社の縁-enishi-新潟支店があるギャラリー蔵織。
シンさんの終の住処だったのです。
平成29年11月より、この建物の2階をお借りして縁-enishi-新潟店は営業をさせていただいております。
1階の奥にある蔵で「髪結いインスタレーション」を開催いたしました。
お陰様で会場はぎゅうぎゅう。
みなさん、とっても真剣な眼差し。
今回は、解説をしながら髪を結うスタイルで行いました。
で、ここからはブログで今後のために記録しておきたいこと。
つまらないかもしれないのでナナメに、どうぞ。
今回、明治18年頃のシンさん13歳の頃の再現に挑戦しようとしたわけなのですが、
その頃を示す資料が、まず上の写真のシンさん。
でも、髪を下ろしている‥‥‥。
着物は? 格子の着物? 普段着? 芸妓さんぽくないけど???
そこから、同時期の別の古町芸妓さんの写真や、それを元に描かれた錦絵をお借りして探ってみました。
沢海屋いね(写真)明治初期<新潟ハイカラ文庫蔵>
髪型。なんだろう?鬢(サイドの髪)も小さい。髷もなんだかよくわからない。
「恋湊女浪立田〜こいのみなとめなみのうちよせ」(豊原国周筆)明治初期
<新潟ハイカラ文庫蔵> こちらで描かれた「沢海屋いね」がこちら。
確かに、置屋の名入りの洋傘と、背中の尺八と帯に刺した刀は一緒だけど。。。
髪型、写真とずいぶん違う。おもいっきりデフォルメ。
というより、国周好みにアレンジしてあるのか。これでは高島田だ。
でも、つと(たぼともいう。後ろの髪)が現代の芸妓さんのような落としづと(江戸風)
では無いようだ。低い位置に髪が見えない。その代わり、中くらいの高さがなんだかボリューミーである。どーーーなってるんだーーーー??? 後ろが見えない!!
明治12年に出版された「新潟花かがみ」<新潟ハイカラ文庫蔵>
上巻に当時の古町美妓25名の錦絵(三世広重筆)を載せ、下巻にその評判記を載せている。その中に現れる沢海屋いねはこちら。
ちょっと、おいねさん、落ち着きました!?
髪型もまた違う。潰し島田にみえますね。やはり襟足まで髪が下がらないタイプの落とし苞か?
着物も黒の掛襟つけた縞のお引きずり。芸妓さんにしては地味に見えてしますが、当時の古町芸妓、これは粋なのか?
さて。3つとも髪型が違って見える。同じ人物でほぼ同時期なのに。
「後ろ姿が見られる明治初期の写真はありませんか?」と新潟市立歴史博物館にも尋ねてみましたが、その頃の写真は少なく、後ろ向きは残念ながら現存しないというお答え。
なかなか前に進まず。。。
ここで、時代を少し遡ってみます。
明治のこれらの資料以前に残っている新潟芸妓の資料で髪型や着物がわかるものがこちら。
北国一覧写・出羽・越後 長谷川雪旦著(大正13年出版)<国立国会図書館>
こちらは雪旦が1831年8月に新潟の花街を訪れた時のスケッチ。
天保2年というと江戸時代の末期。
天保年間は島田髷の前後を水平に結うのが流行っていたらしいです。(江戸結髪史・金沢康隆著より)
江戸中期に一世を風靡した灯籠鬢(横に張り出した鬢)もこの時期はとうに廃れています。
このあとの弘化年間では髷尻が更に高く上がっていき、
安政年間では今度は逆に髷尻が下がっていったということです。
そして、時代は明治に。
はい。こちらも美しい。うるしや安さん。
先ほどのいねさんと同時期の写真です。
こちらは振袖。立矢のような帯結び。髪はおそらく桃割。(髷の毛流から見て)
<新潟の花街・藤村誠著より>
「恋湊女浪立田〜こいのみなとめなみのうちよせ」(豊原国周筆)明治初期
<新潟ハイカラ文庫蔵> うるしや安
だけどこちらの安さんはご立派な島田髷。
「新潟花かがみ」<新潟ハイカラ文庫蔵>
こちらの安さん、見えにくいけれどおそらく島田髷。
色々調べてみたけれど、結果、シンさんはどんな髪でどんな着物だったの〜!?
まだよくわからない。
現代の古町芸妓さんたちを見てみると、
「振袖さん」は振袖に帯は矢の字結び、髪は桃割れ。
「留袖さん」は留袖に帯はお太鼓または柳。髪は中島田とのこと。
なので今度はシンさんの後の時代から検証してみることに。
こちらの写真は明治30年〜45年頃と思われる古町芸妓さんの絵葉書<新潟ハイカラ文庫蔵>
こちらの一枚で更に謎が深まるのでした。
袖の長い人が今でいう「振袖さん」だとしたら、二人ともおそらく
髪は中島田?どうも桃割れでは無さそうです。右端の方、中島田や高島田に使う「丈長」という根を高くする紙が巻いてあるようです。島田の形です。左端の振袖の方も髷の中央割れていません。島田っぽい毛流れです。
右から、2番目と3番目の姉さんは「つと」がすごーく下まで下がった潰し島田。妙な文庫らしい結び。
左から2番目の姉さんの「つと」はあんまり落ちていなくて、前髪の傍に垂れ下がる髪の束が見られます。他にも何人か同じもの下がっていますね。中央部で座って樽を叩いている方はまた違う髷になっていたりと、もはやカオス。現代のようなきちんとした「きまり」はこの頃はまだ無かったのではないでしょうか。かなり自由〜。
となると、13歳の頃のシンさんも桃割れじゃ無かったのかもしれませんね。
ここまで調べると、もう、何をたよりにすれば良いのかわからずに悩んでしまいました。
そこで笹川さんからのこの一枚のポスター。
こちらは昭和の始め頃のものだそうです。
<新潟ハイカラ文庫蔵>
この結び。ヒダを折らないで作るこれも「立矢」の一種なのだと思います。
どうやら、他の地域には見られない、新潟特有の結びらしいです。(「うちの地域にもあるべヨ!」という方はぜひご一報ください。)
ということで、なかなか髪型と衣装を決められないでいた私でしたが、
この帯結びはあの「うるしや安」さんも振袖でしていたようですし、明治の始めの
雛妓のシンさんもきっとこの振袖に「立矢」結びだったと推測しました。
髪型は上の写真は島田ですが、13歳という年齢を考慮してここは桃割でいくことに決めました。
はい。大変おまたせしました。前置き長すぎですね。いえ、これは後々のためにこれまで調べた内容を記しておきたかっただけなのです。お付き合いいただいていたら恐縮です。萌える人はごくわずかだと思われる内容でスミマセン。
こちらが、再現したシンさんの姿です。
どーーーん。
蔵織前の柳と一緒に。奥には白山神社。
絽の振袖に絽の丸帯。半襟ももちろん絽の刺繍襟。
髪飾りは団扇。反対側には翡翠の簪。 櫛は糸巻き。全て夏らしく。
現代の「振袖さん」はお引きずりでは着付けませんが、明治の頃はひきずっていたようです。
大変貴重な資料をたくさんご提供くださった新潟ハイカラ文庫の笹川様。
笹川さんがお持ちの資料は博物館クラスの古書も多く、今回そこから髪型を紐解いていく
作業は大変興味深く思い白い体験でした。
まだまだ勉強が浅いので、これを機にもっと深めていきたいと思います。
こちらが、笹川さんの当日のレポートです。
笹川さんの視点で書かれていてまた面白いのでよかったらご一読を。
「髪結いインスタレーション」in ギャラリー蔵織 |
最後に、今回解けなかった謎。
①振袖さん、留袖さんの区別はいつの時代からできたのか。
②現在のようにかつらになったのは何時からなのか。(戦後からという意見もあるが実際、古町の芸妓さんたちはどうだったのか)
③現代の「振袖さん」はいつのころからお引きずりをやめて今のスタイルになったのか。またそれはなぜ。
④髪飾りの配置の仕方が京都の舞妓さんや芸妓さんとは違った特徴があるが、何か意味があるのか。
⑤明治の写真や錦絵で縞や格子の振袖や着物が多く見られた。花街にしては地味な気がしてならないが、それは流行だったのか。それとも別の理由があったのか。
⑥北前船は新潟芸妓の文化においてどのような影響をもたらしたのか。
⑦日本髪は京風、江戸風と違いがあるが、新潟はどちらの影響が強いのか。(今回は江戸影響が濃いと推測して再現したが、本当のところは?)
⑧かぶたを使わずに根巻きの毛で落としづとの中島田や高島田を結った場合、どうやって根の高さを安定させていたのか。(技術的なコトです^^;)
この辺りの疑問がクリアになるように更に研究していこうと思います。
自分への宿題ですね。
古い資料や、昔の話を聞かせてくださる方にめぐり逢えたら嬉しいです。
そして、来年が新潟開港150年の年。
更に深まった「髪結いインスタレーション」が出来たらいいなと思います。
縁-enishi-オフィシャルサイトはこちらから
Facebookページはこちらです
instagramは着物とヘアのスタイリングを随時アップ
Pinterestもはじめました