「殺生」の原義は、生き物を殺すこと。

仏教では、「五戒」(→見る)の筆頭にあげられてもおり、在家信者が守るべき戒律の一つです。
また、「十悪」の中にも入っています。

しかし、人間の世界というものは、「殺生」がどうしてもついてまわりますね。

中には「生き物の殺生」をしなくては成立しない職業もあります。
どうしたらいいのでしょうか?
それについて、本願寺第三代覚如の『口伝抄』によくわかるエピソードがあります。

親鸞と他のお坊さんが魚鳥の肉でもてなされた時のことが書かれています。
目の前に殺生したものが置かれている。
親鸞以外のお坊さんは、殺生したものを食すために袈裟を脱いだのだそうです。
しかし、親鸞は袈裟を着たまま食したとあります。

漁や、猟、畜産・・・生きるためには、殺生を避けられない仕事です。

「今は仏教が廃れた世なので、僧侶の姿であっても、世人と心は同じだから食する。しかし,食べるからには食べられる生類を解脱させたいと思い、諸仏解脱の姿を表す袈裟の働きに期待してみようかと思い、袈裟を脱がずに食べる」という理由だったそうです。

そして、親鸞は
「さるべき強縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)と語り、殺生をも行い,食す人間を見据えました。

こう書くと「では殺生してもいいのか、戦争は?殺人は?」という意見が出てきそうです。
もちろん、戦争も殺人も断じてすべきではありません。
「不殺生(ふせっしょう)」は、浄土に生きようとする私たちの願いであり、不殺生の実践こそが人間を人間たらしめる教えでもあります。