「団塊世代が退職・老後を意識し始めたと思われる15年ごろから、「改葬」の問い合わせが増えているようです。
生きている、残された人は、生活がある。だから「動く」。
墓守りをするために生きているわけではないから、もし遠ければ、「近い墓がいい」「墓を移したい」と考える人が増えるわけです。

けれど、寺院に生まれ育った私は、「そもそも墓とは何か」と考えます。

故人が遺族を縛るためのものでも、先祖が子孫を身動きとれなくするためのものではありません。にも関わらず、生きている私たちは墓に縛られている。墓参りをしてすっきりする。何か義務を果たしたと思う。それだけで果たしていいのでしょうか。

いま墓守をするために墓を移しても、いずれ子孫の誰かにより、また便利な場所に移されるとしたら、墓とはいったい何でしょう。
葬儀にせよ、墓にせよ、現代に生きる私たちはいかにも自分の都合で墓をとらえがちです。仏教であれば、葬儀は、身近な人の死を機縁とし、仏法に出会う。墓参りで、合掌し、故人との関わりを思い、今自らの生を問う。
供養とは、故人を思うなかで、残された私たちがいかに生きるかを考えるひとつの機会だと思います。

墓参りすることが大切なのではありません。墓参りをして、故人に感謝し、連綿と今につながる命の連鎖を思い、そしていかに生きるかを考え、知る。
仏様に手を合わせ、念仏をする。その命への問いかけこそが得がたいのです。

だから本来、どこで合掌していても、そこに命への問いかけがあるなら墓の場所はあまり大きな問題ではないのではと、ふと考えます。


そこで、「永代供養」という言葉が浮かぶわけです。孫が代々続くことが保証されない今の時代に、マッチする考え方であるかもしれません。永代供養とは、永続可能な墓地を管理する寺院などに供養を委託すること。決して「寺院に任せれば、自分たちは供養しなくてもいい」という意味のものではありませんが、子供や孫に負担をかけることを心配する年代には、かなりフィットする方法だと思いもします。

命日になれば、その故人の名が書かれたページを開き、住職が読経する。私の実家の寺院でも、この永代供養を行っているので、住職は毎日どなたかの供養をしていることになります。それはひと月前に亡くなった方でも、30年前に亡くなった方でも、等しく。

「永代供養」とは小さい頃から耳にしてきた言葉だったので、目新しいとも感じたことはなかったのですが、案外と知られていないことかもしれません。何代も続いている寺院で、毎年命日に故人の供養をしてもらう。自分が元気であれば、そこで毎年あるいは年忌ごとに法事をお願いすればいいのです。

少子化が進み、未婚者が増える。そんな時代には生前に考えるべき問題があまりに多いようです。

跡継ぎがいない、墓守が途絶える、無縁仏になる・・・もしそれが不安で、今このひとときを生きにくくしているのなら、安心できる寺院に託せばいいでしょう。「改葬」を考えるとき、もしそこが寺院であれば「永代供養」を考えてみるのは推薦できる方法です。

そして、命日でなくても、法事でなくても、その寺院に参ったら、墓参りだけでなく、仏様にも手を合わせることをおすすめします。