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「実は懸念があるのですが」
「気にかかって仕方のない心配事」があると、なかなか仕事もはかどりませんね。なければないほうが、すっきりと日々を過ごせるのが「懸念」です。
 
 仏教で言う「懸念」は心を一つのことのみにつなぎとめて、他は一切気にかけない」という意味。「繫念」「係念」と書くこともあります。そもそもは「繫念」がよく使われており『観仏三昧海経』にも「心を住して一処に繫念す」という一節があります、

 ただ一筋に、ただ一心に心をつなぎ「南無阿弥陀仏」と唱えることで往生を願うのが「懸念」なのですから、もともと悪い意味ではありません。
 しかし、「繫念」という字がむずかしいことから、「懸念」と書くようになりました。そして「心に引っかかる」という意味が強くなり「執着」「執念」という意味を持つようになりました。
 もともとは「心をつなぎとめて、ただ一筋に」ということでしたが、そこに執着が起きれば不自由なこと。さらに時を経て、「気がかりなこと」「心配なこと」という日常語になっていきました。

 日々のなかで、全く心配事なく過ごすのは、実際にはむずかしいことです。執着も起きれば、懸念も生まれます。大事な人や家族がいれば、またその心配をし、「懸念」を手放すことは簡単ではありません。

 けれど、苦労の先取りをしても仕方がありません。「心のひっかかり」は、心に積もった埃や塵のようなものと考えて、ふっと吹き飛ばしてしまいましょう。
 吹き飛ばしてしまうには「南無阿弥陀仏」の称名に「心をつなぎ」、本来の「繫念」を行えばよいのです。この世はあまねく慈悲の光にあふれているのですから。




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