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「縁起」はもともと仏教の根本的な教えです。

 高校野球で泥のついたユニフォームを洗わずに着続けたり、茶柱が立つと喜んだり、茶碗が割れると「虫の知らせ」と言ったり……。
 日常のいろんな場面で、私たちは「縁起をかつぐ」「縁起が悪い」などとしょっちゅう口にしますが、どれも精神的な作用からくるジンクスのようなもの。
 泥のついたユニフォームは勝利のときのいい流れを思い出させてくれるでしょう。茶柱が立っているのに気づく人はゆとりがあるということでしょう。茶碗を落とすのは気持ちが焦っていることが多いでしょう。

 仏教本来の「縁起」は、これらのジンクスや迷信とは全く関係がありません。仏教でいう「縁起」は、全てのことは、さまざまな「因縁」、つまり「原因と条件」によって起こっているということを示すものです。
 風が吹けば、木がそよぎます。川の水蒸気が空に昇れば、雲になります。雲が黒くなれば雨が降り始めます。雨上がりに陽が差せば、空に虹色の橋が架かります。光そのものに色があるのではなく、空気中の水蒸気が光を反射して色づくのです。

 何気なく暮らしている日々の、景色をそっと見渡すだけでも、何と多くの縁起で成り立っていることでしょうか。
 そして、今ここにある私という人間も、これまで関わりあってきた人や環境によるわけで、何が何でも「今の私」という存在になっていたとは限りません。確率など出すことさえできない、本当に不思議な存在のように思えてきます。
 不確かで、頼りない存在ではありますが、同時にこれから先どのようにでも変化していくことができる存在であるとも考えられます
「今ここにいる自分」はまだ道半ばです。縁起により、どのようにでも変化し、希望を持ち、生きていくことができると考えてはどうでしょう。
 そのための仏縁は、どんな人の隣にもいつもそっと寄り添っているのですから。




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