勝新太郎  逸話 すげぇですよ | 熊本 リサイクルショップ ~en~

勝新太郎  逸話 すげぇですよ

晩年は好きだったB'z ライブ にも度々顔を出していた。

もともとB'zを聴くようになるきっかけとして、B'zのボーカル稲葉浩志 との出会いがある。

とある居酒屋で勝が飲んでいたところ、そこに稲葉が来店し、その瞬間一目惚れをしたらしい。

「裕次郎以来、最高の男を見た気分だ」と稲葉を絶賛、俳優としてデビューさせようと話を持ちかけるも、稲葉がB'zのボーカルであったことが分かり諦める。

その後、時間の許す限り自ら購入したチケットでライブに訪れていた。ある横浜でのライブに感動した勝はいきなりステージに上がり、稲葉に兄・富三郎の形見の品であるテンガロンハット をプレゼントしている。

このテンガロンハットは現在も稲葉の宝物として、稲葉のプライベートスタジオに大事に飾られていると稲葉本人が発言。

病気療養の為に入院した時も、稲葉から贈られた彼のソロアルバム マグマ 』を亡くなるまで何度も聴いた。

中村玉緒は「最後にもう一度だけでいい、稲葉さんに会わせてあげたかった」と発言している。







1960年代後半にはいると大映で雷蔵、京マチ子 、若尾に次ぐギャラをもらうようになっており、永田社長に「これだけギャラを上げてくれ」と指2本を出したが、永田は断った。

そのためストライキ を敢行し、結果的に永田が折れる形で決着が着いた。しかし、ギャラが映画1本に付き200万上がり500万円になったため勝は驚いた。

何故なら、「20万円上げて欲しかった」事を勘違いされたのである。これで長らく大スターに君臨する同期の雷蔵をも上回る大映NO.1となったと勝は語る。

しかしすぐに雷蔵のギャラも500万円となり並んだ。

全盛期をとっくに過ぎた映画界としては珍しい太っ腹なエピソードである。三隅研次 監督は「経営不振にもかかわらず、永田社長がいかにどんぶり勘定で経営していたかを示すエピソードのひとつだ」と語る。

ちなみに入社当時の勝のギャラは1本に付き3万円、雷蔵は1本に付き30万円+ハイヤーの送迎付きであった。

雷蔵にライバル心を燃やす勝は自費でハイヤーに乗っていた。








ブレイク前のミスターマリック のショーに感激し、そのときの全ての所持金の約50万円をチップで渡した事がある。








住所は未公開ながら東京タワー が見える物件である。妻・玉緒と家庭内ケンカ等の時は窓を指して、「東京タワーが見てる」と言ってケンカの仲裁をすることも度々であった。










兄・富三郎との兄弟仲は非常によく、ある役者の芝居を勝が叱ろうとした時、その役者が「若山先生の言われた通りにしたんですけど…」と答えると「あぁそう、お兄ちゃんがそう言ったの」と機嫌よく叱るのをやめた。









ファンサービスも旺盛で、ファンから頼まれたサインを断ったことはない。

(テレビのインタビューで鴈龍太郎が語っていた)








「俺から遊びを取ったら何も残らない」と豪語し、豪遊は当たり前だった。実兄の若山は下戸であるが、勝は若い頃から大酒飲みで座持ちは抜群。

得意の三味線や歌、愉快な話を披露し、芸者 達をも楽しませた。

しかも、取り巻きが飲んでいる間に徐々に増え、最初10人ほどだったのが100人近くに増えることはザラだったという。

同期入社で若い頃より長者番付に入っていた雷蔵がスタッフを飲みに連れて行っても割り勘であったのとは違い、飲食代は勝が全て支払っていた。結果、不摂生な生活で肥満して役柄も限定されるようになり、大映倒産後は時代を追うごとに収入が激減、特に勝プロダクションが倒産してからは借金取りにまで追われる生活であったにもかかわらず、借金で豪遊、高級車に高級な服と外見は豪勢な生活を続けた。

そのため債権者や妻の玉緒らに迷惑をかけ、とうとう死ぬまで返済できなかった。










テレビ や舞台、映画で大忙しながらも「飲まなきゃ気持ちを切り替えられない」と語る加藤茶 は、銀座 高級クラブ で、勝がアイス・ペール に高い酒をドボドボ入れて回し飲みしているのを見かけていたと言う。

加藤はそのような酒の飲み方を「勝さんが最初ですよ、この飲み方」と、インタビューで語っている(朝日新聞 夕刊『人生の贈りもの』より)。








石原裕次郎 とは、「きょうらい(兄弟をもじった言葉)」と呼び合う仲で、良き友人だった。ある酒宴の席で2人が大げんかになった時には、勝が一言「いい芝居だったな、きょうらい?」と言うと、裕次郎も「あ、ああ、いい芝居だった。」と言い、それで手打ちとなった。










1971年、玉緒に対し一方的に離婚宣言をする。

しかし玉緒に相手にされなかったため離婚は成立しなかった。









上記の通り舞台裏ではトラブルが多かったが、その反面、非常に肉親思いであった。

1982年 に母・八重子が死去した際、「俺を産んでくれたところに顔を埋めてキスをしたよ」と発言。1992年 は兄の若山が死去し、納骨式の時にカメラの前で兄の遺骨を食べ、涙を流した。

さらには1996年 、父であり長唄の長老、杵屋勝東治が死去。

父がなくなる数日前から添い寝 し、施主も務めた勝は墓前での納骨式の際に火葬場でこっそり懐に入れた遺骨の一部を取り出し、泣きながら食べ、「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」とコメント。

このように、勝の肉親への強い愛情を改めて印象付けた。









晩年、妻・中村玉緒に対し、「中村玉緒は勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒無しでは存在し得ない」と最高の賛辞を送った。









死後に残った莫大な借金は、香典代わりに債権を放棄した債権者もいた。









勝の臨終間際の前に巨大な台風 が訪れ、台風一過と共に勝は亡くなった。