エミシは、何者だったのか 2 | エミシの森

エミシは、何者だったのか 2

前回、三陸の方が「俺らのご先祖さんは、海賊さ」と言う方々もいる。と書いた。

海賊・・・んな訳ないさあ・・・と思う方も多いだろう。

歴史を詳しく書こうとは思わない。が、少しエミシは何者かを考える上で、新羅との関係性を整理したい。

「新羅は、高句麗の属民であったが、倭が391年に百残・加羅・新羅を臣民となした」と言う記録がある。
以外な話と思われるだろうが4世紀、例え一時的ではあっても倭国が新羅を属国としていたのである。新羅建国の王族の昔氏は、倭人と言う説もある。

5世紀、満州を含むが朝鮮は、高句麗、百済、新羅、伽耶連合国があった。

朝鮮統一まで、滅亡した年と国は、下記のとおり。

562年、伽耶連合国。
660年、百済。
668年、高句麗。

朝鮮統一の勝者は、新羅であった。

新羅は、唐軍も追い出す。それほどまでに強力な軍事力を支えたものは何であったか。

それは第一に鉄の武器、つまり刀である。
その鉄は、どこから手に入れたのか・・・。

第二に軍資金である。国が荒れれば作物もできない。
武器の材料の補給も含めて戦の継続には、カネがいる。

752年、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、奈良の大仏の塗金用に大量の金を持ち込んだ(と推定されている)。どこの金なのか・・・。

いずれも三陸、金山産・・・と思われる。

にしても事実なら、700余名規模を渡す船(この場合軍船と考えて良いと思われる)を持っていて、王子を安全に運ぶだけの自信に満ちた硬化技術を持っていたことになる。

ヤマト朝廷と新羅との関係性は、935年新羅滅亡まで、良かったり、悪かったりを繰り返す。

悪い時期には、新羅の海軍、いや海賊は、頻繁に日本へやって来ていた。

ヤマトの手の届かない東北地方にも、鉄と金を求めてやって来ていた。

エミシが弓師説の根拠のひとつにもなっている話を書こう。

870年2月15日、朝廷は弩師や防人の戦士50人を対馬に配備したと記録されている。が、一方で対馬防御に俘囚を動員したという記録もみられる。

安倍氏が使用したとされることから弓師と弩師を混同したと思わる。弩は、「ど・おおゆみ」と読み、中国で騎馬民族の迎撃武器として発展した武器である。

大弓、つまり夷の構成である。

亡国により東北へ流入した民族とおおよその時期は、結果として国滅亡の時期であると推察される。

562年、伽耶連合国。王の象徴である亀にまつわる神社などが特徴。出羽から上陸、太平洋側へ移動したと思われる。巨石信仰、端山信仰を持ちこんだ可能性が推察される。製鉄にも長けていた。

660年、百済。東北には、縁が薄いと思われる。一方、関東に縁が濃い。香取、鹿島神宮に関係するのだろうか。

668年、高句麗。コマと読む。狛犬のコマも同じである。岩手に多い駒形神社などの、駒も同じこと。

エミシは、先住の縄文民族をベースに、出雲、越に追われた鉄の民の北上、大和に追われた信濃、甲斐の鉄の民とツングース騎馬系渡来人の北上、毛国に追われ、ついに陸奥へと北上した鉄系騎馬民族と、朝鮮から渡って来た民族の混合により、アテルイの時代を迎えたと考えられるのだ。