マタギという謎のエミシ 其の拾 「藤原宇合(うまかい)」と常陸と鹿島 | エミシの森

マタギという謎のエミシ 其の拾 「藤原宇合(うまかい)」と常陸と鹿島

「マタギという謎のエミシ」というシリーズで既に「其の拾」まで書いてしまった。

どこまで続くのだろうか。自分にもわからない。


マタギの始祖磐司万三郎の祖父を、藤原良継をとした理由は、天台宗と、当時強大な力を持っていた藤原氏の関係性と、間接的にだが天皇家との関係性をも匂わして権威付けしたかったからだろう。


だが狩人の事を、仮にその地域の酋長だとしても、何故そこまで脚色し、権威を高める必要性があったのだろう。


この念の入れ方は、尋常ではない。

ほんとうに貴族の末裔であったのかも知れない・・・と言う気にさせられる。


依然として謎は多い。否多過ぎる。

わざわざ「馬王」と記した謎。

「猿丸太夫」という父との関わりも大きな謎である。


まるで現代に向けた謎掛けのようである。


さて今回は、「馬繋がりがありそうな・・・」と、あっさりと流した藤原良継の父、藤原宇合を中心に探ろう。


「宇合(うまかい)」という名は、最初の名を「馬養」と書いた。

漢字など、この時代、当て字であってどうでもいいのだが。


父は、あらゆる意味で有名な藤原不比等であり、その父は、藤原氏の前身である中臣氏、かの有名な中臣鎌足、つまり藤原鎌足である。

鎌足は、常陸の国、鹿島出身である。

何か因縁めいたものを感じる。


藤原宇合は、東北と無縁では無い。

常陸(安房・上総・下総)守として719年から724年の約5年間程現地に任じていた。


話の流れが一旦止まるが、ここで「鹿島と繋がった」


鎌足、つまり祖先の地でもある鹿島は、藤原家に取っては古くから関わりのあった土地であったことに頭が回らなかった。そのせいでどうやら遠回りをして来たようだ。


赴任中、鹿島神宮との関係を持って当然、自然なのである。


「山姫」を実在の巫女、あるいは地元の豪族の姫なのではないかと思いはじめると、「馬王」は、藤原宇合その人ではないのか、そして「猿丸太夫」は、常陸赴任中に地元の女性との間に作った子ではないのかという想像が否定し難い想いとして湧き上がる。


このことを探ることで謎が解けないだろうか・・・まあそれは次回以降にしよう。


想像話はおいといて史実に戻ろう。


赴任最後の年に大事件が起こる。

否、この事件を上手く対応したことで出世して都に戻ったのだ。


「持節大将軍」と言う聞きなれない将軍となって陸奥に、いや日高見国に征伐という名目の侵略にやって来た。

持節大将軍とは、この時代まだ無かった「征夷大将軍」と同じだと考えて戴いて結構である。


従って東北に縁があるとは言っても、蝦夷にとっては、実に不愉快な苦々しい関係性である。


以下、主な出来事を記載する。


■724年

海道の気仙、桃生、牡鹿地方の蝦夷(日高見国の一部)が反乱。

陸奥の役人を殺害。


■724年

朝廷は、藤原宇合を持節大将軍に任命し、関東地方から三万人の兵士を徴発し、これを鎮圧。


■724年

大野東人により陸奥鎮所(のちの多賀柵)が設営される。それまでは郡山辺りにあったと言われているが、私見だが名取であったのではないだろうか(名取に大古墳を作れる程の大豪族がいた)。

■724年

出羽の蝦狄の叛乱。小野朝臣牛養が鎮狄将軍として派遣される。


■725年

陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監に15人移す。

そして、この後、蝦夷を数千人規模で諸国に配流。


ここで俘囚とあるのは、豪族、つまり武装解除された兵である。

蝦夷とあるのは、一般民である。

この配流は、蝦夷の弱体化を意図した移民政策であり、後に悲劇的な差別を生む。

この後、関東から陸奥に植民政策がとられるが、こちらも地元で差別を生んだ。

このことは、史書に記録されている事実である。


個人的な見解だが、この724年の海道、日高見国での戦い辺りから、アテルイ、モレの胆沢での戦闘(788年)が歴史的なウネリの初点であり、東北の潜在的巨大エネルギーを揺り起こすことになったと考えている。


そして宮沢賢治氏の表現を借りれば「大盗」が来るまで、つまり源頼朝の奥州侵略まで、血で血を洗う東北侵略の悪因縁のはじまりと言っても過言ではない。


石巻、牡鹿は、もう既にヤマトの支配地となっていた。かつて日高見国の湊の舘があった場所、石巻の日和山には、鹿島神社が鎮座している。その神社の由緒を一読願いたい。東北を「先住蛮族地帯」と書いている。いまだに差別と調伏は続いているのだ。


「鎮」・・・鎮められる側の者は、行き場を保証されていない限り、彷徨う以外に無い。

この日高見国への故なき侵略によって失われた多くの蝦夷の戦士、人々の「ヒ(珠=魂)」は、どうなのだろうか。あえて答えは書かない。


マスコミの連発する「鎮魂」とは、どういった意味を持つのか、神道用語を使う場合、偏った意味とならないよう良く調べて欲しいものだ。


蝦夷にとってヤマトの「鎮」の字は不愉快以外の何物でもない。鎮狄将軍、陸奥鎮東将軍、持節鎮狄将軍、蝦夷鎮圧、多賀城鎮守府・・・。


搾取する側の論理を武力で押し通そうとする行為は、いかなる時代であっても最も醜い行為である。


つづく