陰陽 (連声) | 獨と玖人の舌先三寸

陰陽 (連声)

●陰陽(いんよう)――
古代中国の思想に端を発し、森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物を、さまざまな観点から陰(いん)と陽(よう)のふたつに分類します。互いに対立するふたつの属性で、万物の生成、消滅といった変化は、この二気によって起こるとされます。
このような陰陽に基づいた思想や学説を陰陽思想、陰陽論、陰陽説などと言い、五行思想とともに陰陽五行説を構成しました。
※中国の陰陽思想は、儒教や道教に吸収されているため、日本の陰陽道(おんみょうどう)は独自に特異な発展をしました。

“自然界の万物は、陰と陽の二気から生ずるとする陰陽思想”と、“万物は木・火・土・金・水の五行からなるとする五行思想”を組み合わせ、自然界の陰陽と五行の変化を観察して瑞祥(吉兆)、災厄を判断し、人間界の吉凶を占う実用的技術と成った、それが陰陽五行説です。
中国の占術、天文学を内包したまま、道教、仏教、そして神道などから様々な要素を受け取っています。


●陰陽(おんみょう)五行説(学)――
5世紀から6世紀頃に、仏教や儒教とともに日本に伝わってきました。この技術は、当初はおもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていましたが、時が下り、朝廷に奉仕するようになります。そこで俗人が行う必要となり、7世紀後半頃から陰陽師が現れ始めました。
7世紀後半から8世紀初めに律令制が敷かれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化されます。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせました。
また、令では僧侶が天文や怪異、瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占が計られるようになります。

平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって怪異を回避する方法を示し、天皇や公家の私生活を手引きすることとなりました。
これにともなって陰陽道は、宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師、陰陽師などの手を通じて民間へと浸透し、日本特異の展開が進んでいきます。

日本の陰陽道は、同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術、泰山府君祭などの道教の神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受け合いながら、独自の発展を遂げました。
8世紀末からは、密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術も内包します。

10世紀には陰陽道、天文道、暦道いずれも究めた賀茂忠行、保憲 父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受ける“安倍晴明”が出ました。
忠行、保憲は晴明に天文道、保憲の子 光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道、暦道を完全に取り込むとともに、天文道の安倍氏と暦道の賀茂氏が二大宗家として独占支配するようになります。

平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は公卿に列することのできる家柄へと昇格していきました。
中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立ちました。
戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移りますが、安倍氏の宗家土御門家も戦乱の続くなか衰退していきました。
一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍していたようです。

幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、土御門家と賀茂氏の分家 幸徳井家を再興させて諸国陰陽師を支配させようと計ります。
やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末に土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得、全国の陰陽道の支配権を確立しました。
陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなりましたが、暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く、日本社会へと定着していったのです。

明治維新後の明治5(1872)年、新政府は陰陽道を迷信として廃止しました。

現代には土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県香美郡物部村(現 香美市)に伝わるいざなぎ流を除けば、暦などに名残をとどめるだけですが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は、宗教として存続しています。


※安倍晴明――
延喜21年(921)~寛弘2(1005)年。
“晴明”を「せいめい」と読むのは有職読みで、本来の読み方は確定されていない。
鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖ということになる。

伝承では、平安時代、最先端の学問(呪術・科学)であった“天文道”や占いなどを、体系としてまとめた思想としての陰陽道に関し、卓越した知識を持った陰陽師といわれる。
当時の朝廷や貴族たちの信頼は厚く、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいる。

大呪術師、非官人の陰陽師、道摩法師(どうまほうし)こと蘆屋道満(あしやどうまん)は、安倍晴明と好敵手で、法力を争ったとある(宇治拾遺物語)。
(道摩法師と蘆屋道満は別人説あり。)

※晴明紋は五芒星。


※連声――
れんじょうとは、前の音節の末尾の音が 後の音節の冒頭の音に影響して、後の音節
が変化することを言います。
安穏( あん + をん → あんのん
因縁( いん + ゑん → いんねん
観音( かん + おん → かんのん
三位( さん + い → さんみ
雪隠( せつ + いん → せっちん
天皇( てん + わう → てんのう
反応( はん + おう → はんのう
輪廻( りん + ゑ  → りんね
そして、
陰陽( おん + よう → おんみょう
歴史的に観ると、当時の仮名遣いでは“陽”は「やう」。“陰”は、一般的には漢音で「イン」。「オン」は呉音です。
アチコチ調べてみると、「いんようどう」「おんようどう」と、仮名遣いもまちまちです。当代に到って、おんみょうに落ち着いているのもなぜか、説明できませんww┌(_ _)┐ww





これまでも、これからも、某のブログで、日本の文化にどれだけ陰陽道が根付いているか、お分かりいただけると思います。