映画「ルター」 | いまのしゅんかん

映画「ルター」

教会に、2003年に上映された映画「ルター」を観に行った。

宗教改革500周年にちなんでマーティン・ルターの勉強会がアレンジされ、その中でその映画を観たいという要望があがったために急遽鑑賞会となったわけである。

勉強会ではちんぷんかんぷんだったわたしも、この映画を観るのを楽しみにしていたのだが、宗教そのものだけでなく歴史にもからんだ話になっていて興味深いと思った。

なんといってもキリスト教を分裂させてヨーロッパ内を不穏にさせ、100年後には宗教衝突にからんだ30年戦争に発展し、神聖ローマ帝国を弱体化させ、ドイツの諸侯国の力を増大させている。

 

映画は、150623歳のルターが初めてミサを司祭し、あまりの恐れ多さにワインが入った杯の持ち上げてぷるぷるしている場面から始まり、自分の心に平安がもたらせないことに自問自答し、ローマに旅行して免罪符を買いながらそのことに対する疑問をもつようになり、ヴィッテンベルク大学で聖書の自分の解釈を講義し、1517年に95か条の論議を発布し、宗教改革に発展していく、という流れである。

 

映画を観て思ったのは、本当に信仰というのはなんなんだろうかと。。

ルターがローマで免罪符を買い、盲信しているひとたちをみながら、その免罪符を握りしめるシーンをみて、わたしもずいぶん前に神社で買ったお札を破りたくなる衝動にかられた。

福が来ることを信じ、お札を所定の方向に向けておいたのも、似たようなものではなかっただろうか。お守りもしかり。

なんとなく神社のスピリチュアルなものを信じながら、お札やお守りをもつだけで神様の力を得て、願いが叶うのではと期待していたのではないだろうか。

ルターが、免罪符のバカバカしさに気付いたあと、ヴィッテンベルクで免罪符が売られるようになり、ある母親が子供の足がよくなるであろうことを信じて免罪符を購入し喜々としていると、「それはただの紙切れだよ。ほら、僕がその買ったお金をあげるから、それで食べ物でも買いなさい。」と言い、母親はひどくがっかりするのだが、ああ、わたしもそうだった、、と思った。

ものすごくバカバカしい話なのだが、わたしは小さいとき、ある意味今以上に信心深く、何か強い望みがあるときには、「神様お願いします。」と強くお祈りしていたものだった。

わたしは、何もしなくても、わたしの願いを叶えてくれる都合のいい神様を信じていたのだった。

というか、大人になってからも信じていたかもしれない。学生のときに、あることを祈願しに京都の有名なお寺に行ったくらいである。自分自身について省みることなしに、祈願さえすれば、そういうスピリチュアルな力で願いが叶うと思っていたのである。

 

ルターがヴァルトブルク城に隠れ住みながら聖書のドイツ語訳に専念している間に、過激派による教会破壊などで10万人ものひとの命が奪われたシーンをみてもしかり。同じキリスト教を信仰しながら、カソリックが間違っていると言って暴力を行使しているひとたちのほうが、なんなんだと思ったり。

だけど、だからこそ、ルターが聖書をドイツ語に訳すことにはものすごく大きな意味があったんだろうとも思ったり。

わたしも、自ら聖書を読むことで初めて「神様」や「信仰」について考えさせられたから。

宗教に偏見をもちながら、スピリチュアルな力だけは信じてそのご利益を得ようとしたり、ものすごく矛盾したことをしていて、聖書を読んで初めて自分の誤解に気が付かされたような気がする。

それまで、神様を信じることは、神様の力を信じてよい行いをすることだと思っていて、本当は、神様のほうに向かうことであるなんて思ってもなかった。まさか、神様を信じて、むしろ自分がいかにダメ人間と思わされ、こんなに苦しくなるなんて思わなかった。

だから、それまでラテン語で書かれた聖書をほとんどのひとが理解できなかったため、聖職者のひとたちのいうことにそのまま信じるのも無理はなかっただろうと。そして、それがまやかしだったと思えば、裏切られたと、乱暴ではあるが暴力に訴えるのもわからなくはない。

ちなみに、最近興味をもっている日本人のある脳科学の研究者いわく、人間というのは防御反応のひとつとして、社会の中で異物と感じるものを排除しようという本能があるために、攻撃をすることで快感が生まれるようになっているらしい。悪口や陰口が楽しいのもそうだし、戦争が永遠になくならないのはそのためであると。

やっぱり人間っていうのは、悲しい性なんだなぁ、と。だからこそ、その生理的欲求を抑制する理性を保つために宗教は有効なんではと思うのだが。

ルターは、そういう自分の人間ならではの欲望に関してもとても正直に認めていて、聖職者として苦しみぬいたようである。結局結婚するのだけど、その欲求を変なかたちで発散するよりはいいのではないかと。最初から恋愛感情で結ばれたわけではないけれど、最後まで愛し抜いたらしい。

 

それにしても、8月に予定しているライプツィヒ行きががぜん楽しみになってきた。電車で1時間ほどのヴィッテンベルクにも行くつもりである。