灯りを灯す
デンマークに帰ってきて、あっというまに週末になった。
仕事もレポート書きにてこずるなど忙しかったが、たまっていた郵便物の処理をしたり、娘が家にいるので毎日昼ごはんを作りに家に戻ったり、家のこまごまとした用事があり、あわただしかった。
日本でまったく料理していなかったのに戻ってきてからは一日3食作っているが、日本ではほとんど外食だったので、自分で好きなものを作って食べるのもいいな、と思ったり。友達が泊まりにきたときに作ったエビのタイカレーは我ながら絶品だった。
友達が、わたしの家で何もしないことが落ち着かないと言っていたが、わたしはまさに日本でそんな心境だった。最後の1週間は、デンマークでの忙しい日常が恋しかったのである。
泊まりにきた友達は、キリスト教に傾倒しており、わたしも日本で三浦綾子と遠藤周作の本を読んでいたので、その話で盛り上がった。
わたしは、聖書は哲学の本だと思っており、別に洗礼を受けるつもりはなくとも、共感できることがたくさん含まれていると思っているのだが、だから彼女とは考え方が共通していて話すのが楽しい。
まず第一に、わたしたちは生かされているということである。
自分の意志どおりに物事が進んで行けると思いがちであるが、実は思い通りにいかないことがほとんどである。
生まれたときから資質が決まっているし、そうでなくても人間性形成の影響の大きい、育っていく環境でさえただ与えられたものである。
思いもかけず病気にもなるし、家族のトラブルに巻き込まれもするし、自分の力が及ばないことに振り回されもする。
それでも生きていかなければならない。
第二に、隣人を愛することである。
これが難しい。ひとはそれぞれ異なる意思をもった独立した人間だと認識しながらも、傷つけられたら憎たらしいと思うし、そのきもちを理解してほしいと思う。
でも、自分が大事なのは当たり前で、自分本位で生きて行くのは当然。互いに自分の憎しみを受け入れてもらうことなんて不可能。憎まれたら憎み返す憎しみの連鎖は不毛でしかないどころか、事態をますます悪化させていくだけである。
マレーシア航空の襲撃事故からEUがロシアの制裁措置を決め、そしたらロシアがロシア上空の飛行を制限するといいだし、どこまで事態が発展するのか戦々恐々としているし(また天然ガス止められるかもしれないし、、)、イスラエルのガザ地区の攻撃にも胸を痛めている。
そんな深刻な国際情勢と並列にするのも気が引けるが、わたしは自分のささいな個人的な事情にもとらわれていた。
最後につきあっていたひととは自分から離れることを決めたのに、1年半あんなに助けたにもかかわらず、なぜわたしが苦しいときに手を差し伸べてくれなかったのか恨み続けて苦しかった。
でもやっと、見返りを求めることが間違っていることに気がついた。助けるのは好きだから。好かれたいから助けるのがそもそもの間違い。助けたからといって相手がどう思うのかどうかはわたしが決められることではない。嫌われるのが怖くて、助けられる余裕がないのに助けることを頑張り過ぎたことが問題だったことがわかった。
でも、思いもかけないことが起きることがかえってありがたいな、と思う。
友達も大病を患ったことでデンマークに来ることを決め人生の変換が起きたそうだけど、わたしも夫と出会ったことでいろんな経験をすることになった。最初から違和感を感じていたのになぜ別れなかったのか自分でも疑問だけれど、やっぱり別れなくてよかったと思う。結局別れたけれど、意味のある9年間だった。
苦しい局面でこそいろいろ学ばさせられる。
そういう意味で、いいことだけでなく、苦しいことも、「授かりもの」なのかな、と思う。
友達とも、要は自分のきもち次第、と言い合った。
いろんなことが起きるし、いろんなひとがいるけれど、それはそれと受け止め、自分の中で灯りをともし続けることが大事という。
昨日は、ヨガとメディテーションの無料体験に行ってきたが、思っていたよりもよかった。
ストレッチと瞑想を繰り返すものだったが、わたしがいかに常に緊張しているかがわかった。体がこわばっていてリラックスできていない。マッサージのひとを驚愕させるだけのことはある。
どれだけ、「~しなければならない。」と思いこみ、体に負担をかけているのだろうか。
わたしはすぐにハイテンパーになるので、マインドコントロールを向上させるために、ヨガを始めてみようかな、とその気になり始めた。