わが国には様々な日本三大 なんとかという

話がありますけど 三大悲恋物語というものがあります。(^-^)



竹取物語



羽衣物語

そして 松浦佐用姫物語





竹取物語 羽衣物語は フィクションの

割合が大きいのですが 松浦佐用姫物語は

かなりの部分 史実に基づいた箇所が多いのです。

まず 松浦佐用姫は 七福神の一人である

弁天様( 弁財天 )のモデルになった女性です。(^^)

私 蛍川が住む福岡県のお隣 佐賀県は唐津市

旧 相内( オウチ )町 或いは厳木( キュウラギ )町の

出身と云われております。

松浦佐用姫物語は 西暦537年 宣化天皇2年に

新羅が任那に攻撃された為に 大和朝廷は

大伴金村 磐 狭手彦親子を任那 今の朝鮮半島に

派兵します。

この中の狭手彦が 赴任先の篠原長者の所へ

やって参ります。

その際 篠原長者の娘である 佐用姫と恋仲になります。(^^)

おそらく楽しい日々が続いた事でしょう。

しかし 出発の日がやって参ります。

狭手彦は任務を終え帰ってきたら 夫婦になる

約束をします。

別れに際して 狭手彦は佐用姫に 銅の鏡を

手渡します。

別れを惜しむ佐用姫は 玄海灘を見下ろす

鏡山に駆け登り 去り行く軍船に向かって

身に纏っていた領巾( ヒレ )を打ち振った。

この故事から鏡山は別名 領巾振山( ヒレフリヤマ )と

呼ばれるようになります。(^^)

それでも諦めきれない佐用姫は 呼子 加部島まで

軍船を追って行きます。

ちなみに呼子という地名は 佐用姫が狭手彦の名前を 呼び続けた事から

その名が付きました。

佐用姫は加部島まで来たものの ついに軍船を

見失い 悲しみのあまり7日7晩 泣き伏して

ついに石になってしまいます。

これが後世 松浦の望夫石( ボウフセキ )と名付けられ

田島神社の境内に移し 佐用姫として

祀られております。

後日談として 狭手彦は3年後くらいに

任那から凱旋し 松浦に戻ります。

しかし 佐用姫の姿はそこにはありません。

佐用姫の死を聞かされて 狭手彦は嘆き悲しみ

百済から持ち帰った 観音像を鏡山の麓に祀り

佐用姫の霊を弔ったとされております。

それが現在 赤水観音の本尊として

祀られている 金銅観世音菩薩です。

本日は 松浦佐用姫を取り上げました。m(__)m