最近エチオピア王子の遺骨返還が話題になっていますね。
英国が返還を拒否したことが発端だそうですが(以下参照)。
エチオピアのディジャズマッチ・アレマエフ王子は7歳の時、
トリストラム・スピーディ英陸軍大尉に連れられてイギリスに
渡った。
コロナ前に行ったペラ州のマタン博物館。
その隣にあったのが、このキャプテン・スピーディの家。
実はキャプテン・スピーディのフルネームは、トリストラム・
スピーディ英陸軍大尉でして、同じ人の活躍なのであります。
インド生まれのキャプテン・スピーディ。
サイの狩猟中にエチオピア皇帝(アレマエフ王子の父)から
呼び出され、バシャ・フェリカの称号(←Sirみたい)を賜り
エチオピアの軍隊を訓練したんだそうです。
1868年の父皇帝の自殺後、その遺言に従いアレマエフ王子は
キャプテン・スピーディと英国に渡り(誘拐とも?)、
後にインドでも一緒に暮らしていたことがあるそうです。
アレマエフ王子は Lockers Park School入学のために英国へ、
キャプテン・スピーディはペナン警察勤務のためにマラヤへ。
二人が再び会ったのは、1879年11月の王子の葬式の時でした。
じゃあその頃キャプテン・スピーディはどこにいたのか?
マラヤ関連のできごとを抜粋してみると、以下になります。
1871年 ペナン警察へ
1873年 Ngah IbrahimのスカウトでLalutへ
1874年 パンコール条約締結後、副行政官@Lalut
1877年 妻とスーダンへ
今回ちょっとばかし調べてみたことで、知ったことがあります。
2021年の米国国際ウィスキー協議会で「ベスト・マレーシア・
ウィスキー」最優秀賞を受賞して話題になったTIMAH。
このラベルは、キャプテン・スピーディなんだそうです。
もう一つはタイピンのレイク・ガーデンに残る遺構。
キャプテン・スピーディが住んでいたペラの副行政官の家と
伝えられていますが、1894年に建てられたという話もあり、
もう少し詳細な情報があれば、またUPします。
追記:ちょっとウルっときたお話があったので。ぜひご紹介を。