クチンへ行った際の記事に、前田利為侯爵の搭乗機がビンツル
沖にて墜落したという話を書きました。
NHKアーカイブスで陸軍葬@築地本願寺の様子があったので
見たところ、前田侯爵機の飛行士が南洋(特にシンガポール)
とは縁の深い阿野勝太郎陸軍技師だったことを知りました。
西村竹四郎医師の著書「在南三十五年」には「当地出身の阿野
飛行士は本日バンコク着」と、欧州日本単独飛行のことを記録
しています。あの時代にどうやって情報を得ていたのかしらね。
塚越・飯沼両飛行士による神風号(朝日新聞社)の世界新記録については前にも書きましたが。阿野飛行士の欧州日本飛行は、
それに先立つ昭和10年のことでした。
パナマ帽に大歓迎を受ける阿野飛行士は、ラッフルズ大学を
卒業し、ケンブリッジへ進学。ドイツではザクセン航空学校へ
入学、という経歴をお持ちなんですが、このとき樹立したのが、
南回りによる欧州日本単独飛行100日の記録でした。
阿野機の名前は「青海号」。ロンドン出発時に名付けたのは
松平駐英大使夫人、すなわち秩父宮妃のお母さまですね。
「当地出身」と後援会を組織し資金の援助もしてきた在星邦人
たちにとって、阿野飛行士の快挙はさぞや嬉しいことだったと
思われます。
大阪毎日新聞(昭和35年7月)のインタビューで「叔父のご恩
は忘れない」と語っていますが、叔父さんとは増田壽太郎さん。
石原産業の指定積込み業者だった増田組を経営していました。