飛び地のLUKUT | EleMariRai @ JB

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三人の娘たちとフルタイムのワーキングマザー。
マレーシア最南端のジョホールバルでのあれこれを綴ります。

ポートディクソンからJBへの帰途では、LUKUTへ寄り道を。

ここはスランゴールの領土であった、いわゆる飛び地です。

 

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丘の上に(このパターンばかりですが)砦があり、遺構が

残っているというので、車で中腹まで上っていきました。

 

Lukutにはスズ鉱山があり、2代目のSultan Ibrahimによって

マラッカからの中国人労働者の流入が許可されたそうです。

Lukutを治めたのは、初代サルタンの孫(すなわちSultan Ibrahimの甥)のRaja Busuという人ですが、この人は高い

税金をかけたり、あまりよい統治者ではなかったようで、

中国人に家に火を放たれ殺されてしまいました(1834年)。

 

その後3代目のSultan Muhammadの治世となり、娘婿である

Raja Jumaatが1846年に郡長として任命されました。

彼のリーダーシップの下、レンガに瓦屋根のショップハウスが

建築され、道路も整備されたそうです。倉庫や税関も完備され

丘の上には屋敷として砦(KOTA LUKUT)が築かれました。

 

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駐車場から上がれば、すぐ砦の入り口です。

 

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砦の広さは 200m × 170m。 5m の深さの堀が囲みます。

当時は尖らせた竹が突き刺してあったとのこと。

 

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これは「まいまいず井戸」ではありませんか!

丘の上だから、垂直に掘るのは難しかったのでしょうね。

 

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レンガで造られた建物の跡。

 

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こちらは雨水を貯めた水槽だったそうです。

立派な砦があったことは、これらの跡から察せられますね。

 

彼の息子のRaja Botは、マラッカの駐在官であるRonald Mcphersonの仲介で英語学校に学び、また同時に父親の

仕事のパートナーであったババのChee Yam Chuanからは

マレー語の読書きを教わったんだそうです。

Raja Jumaatという人の人柄がわかるエピソードですよね。

 

このまま平和に仲良く暮らしていければよかったのですが。

時代が悪かったのだと思いますが、スズ鉱山はここでも義興と

海山の派閥争いがあり、またマレー人同士の領土争いにも巻き

込まれた挙句、1878年にLukutはヌグリスンビランの領土と

なり、Raja botはLukutを離れることとなりました。

 

なお。Raja Botの二人目の妻は、ジョホールのTemenggong Abdul Rahmanのひ孫にあたるそうです。

Raja Botは1916年にJBで亡くなり、未確認ではありますが

どうもお墓はMahmoodiahにあるようですね。

 

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一通り見たので、丘を下って麓にある博物館へ行ったところ、

どうも敷地内から徒歩で丘へ登れたようです。

 

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おなじみのVOCの大砲ではありませぬ。

 

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ポルトガルのものだそうです。

 

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博物館は役人の宿舎(たぶん郡長くらい)だった建物です。

小さいのですが、Lumutの歴史についての展示がなかなか

よくまとめられていました。

 

 

その後は、寄り道しながらマラッカ経由でJBへ戻りました。

LukutにはRaja Jumaatのお墓があり、そこの碑文によれば

Raja Jumaatはブギスの5人兄弟の長男の子孫だとのこと。

すっかりスランゴールの歴史に詳しくなってしまいました。

 

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5泊6日の西海岸の旅は、パパイヤの苗を車から降ろして

おしまいとなったのでした。