義経は、自分の支持基盤であるはずの関東武士に「合理的」な態度を取っていたか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 義経は果たして「合理的に源平合戦を戦っていたのか?」というはなし 、続きです。

 この戦争を「仇討ち」だと信じる義経は、遮二無二平家を追っかけて無茶な作戦を繰り返します。崖を馬で駆け下りろ? 逆櫓をつけるな? 何を無理ばっか言ってるんですか。死んだらどうすんですか。
 義経は、関東武士たちを自分の「家来」だと思い、こき使います。家来が自分の指揮に従うのは当然だと思い込んでいたでしょうが、これが典型的な「貴族の 発想」です。自分の支持基盤たるべき関東武士たちに尊敬のカケラもなく「おまえら半分死ね、そしてオレに手柄を立てさせろ」と平気で言える武将が、合理的 な精神の持ち主と言えるのか。

 彼らが「鎌倉殿」つまり頼朝の家来になったのは、頼朝を棟梁として「自分たちの権利を主張していく」ためです。つまり真の敵は、後白河法王を頂点とする 京都朝廷なのです。関東武士を虫ケラと考えていて「黙って服従して年貢を送ってくればいいんだ」と考えている貴族たちです。
 政治家・頼朝は、朝廷に対して「これからは、そうはいきませんよ」と軍事力を背景に強力に主張していかねばなりません。若いときからずっと関東で暮らしていた頼朝は、自分の存在意義が「御神輿」であることを理解しています。
 ところが義経は、いい気になった挙句、こともあろうに、搾取側の貴族の仲間に入れてもらって喜んでいます。頼朝が激怒するのは当然です。弟にコレをやられては、示しがつかない、どころの話ではないのです。
これじゃあ、武士を忘れて貴族になった平家と同じだ、所詮は京都育ちの御曹司。関東武士たちは皆、義経からソッポを向いてしまいます。当然です。「弟だから偉い」というのは、まるきり「平家」の考え方、貴族の発想です。
 義経が「人気があった」のは京都の貴族や庶民の間で、肝心の関東武士には「まるで不人気」だったんです。戦上手なんてとんでもない、勘違いした貴族のお坊ちゃんです。
 だから、義経が失脚するのは、ある意味あたりまえなんです。

 鎌倉幕府、とのちに呼ばれる関東武士団協同組合にあって、頼朝は皆に選ばれた代議士のようなものである、と思ってください。幕府が源氏一族のオーナー企業 であるなら、弟たちが専務だ常務だといって威張るのも仕方ないでしょうが、代議士が一族を議員秘書にして給料払い放題だったら、有権者が怒るでしょう。
義経は鎌倉から追討されますが、関東武士は誰も義経の味方をしませんでした。武士の権益を守ろうとしない義経が勝っても何もいいことはないからです。
 頼朝ではなく、義経が「単なる手下」だと思い込んでいた関東武士団すべてが怒ったのです。頼朝としては、もう肉親の感情云々ではない、組織論として、義経を粛清するしかなかったのです。
「合理的」な思考のできる人間が、こういう境涯に陥るか。否です。彼は単に「ルール無用の下品なケンカ屋」でしかなかった、というのが、正直な関東武士たちの評価です。

 こういう関東武士ならあたりまえの思考をまったく理解していない京都の貴族階級出身の誰かが「平家物語」を書き、日本人はいまだにこの「平家物語」のバイアスに引きずられています。そこから脱却した小説もドラマも極めて少ないのです。
 義経の戦法が、近代人からしていかに合理的に思えたにしても、当時の武士の常識からすればまったく「道を外している」ものだというのは、事実です。

 そもそも、義経がいともいなくても、平家は勝てません。なぜなら、という話を次のページで。