日本史のなかの「王家」の困った相続争い、について。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 「持明院統」「大覚寺統」。党ではありません、統です。党派、という意味ではなく、血統、という意味です。
 この分裂は、鎌倉時代にできてしまったものです。

 長男より末っ子のほうが可愛いから、そっちを跡継ぎにしたい、と言い出すワガママなヒトって歴史上いっぱいいますが、特に古代から中世の天皇家に多いですね。なんでですかね。要は「優秀な跡継ぎをちゃんと選ばないと家が没落する」という危機感を抱かなくてもすむ、日本で唯一のエライさんの家、だからでしょうかね。
 「保元の乱」もそうですよね。白河上皇が、長男の崇徳天皇が気に入らず、弟の近衛天皇に位を無理やり譲らせたのが戦争の発端ですからね。天皇家、懲りないんですよね。

 とにかく、鎌倉時代にも、おんなじように、そういう困った天皇がいたおかげで、天皇家が兄の家系と弟の家系の二つできてしまい、争ってしまい、仕方なく鎌倉幕府の仲介で、交互に皇位につくことにしたのです。
 この約束を、またまた反故にしようとしたのが後醍醐天皇で、おかげで朝廷そのものが二つに分かれてしまったのが「南北朝」。ですから、「南北朝時代、南朝側を大覚寺統、北朝側は持明院統と呼ぶ」というのは、時系列的にも間違いです。「(鎌倉時代の)大覚寺統が、発展して?(南北朝時代の)南朝になった」というべきでしょう。「南朝側」とは「大覚寺統に味方する公家・武士たち」です。ま、どうでもいいですね。
 相続のルールは、ありました。一応。でも、天皇のなかには「そんなルールは破ってかまわない、だって、俺はこの国で一番偉くて尊いんだから。オレがルールブックだ」って考えちゃう天皇が、たまに(しょっちゅう)いた、ってことでしょうか。

 みんな困るんですよね、そういう天皇さんが出ると。
 今の皇室の先祖だっていう実感、わかないですね。とても。