「信長の光秀いじめ」は、なかった、たぶん。という話の再録です | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 「軍師官兵衛」、じわじわと本能寺の変 が近づいてきて、それにつれて、江口信長の酷薄な性格を示すエピソードが増え、それを見て苦悩する小朝光秀の表情がしばしばクローズアップされてきてます。

 着々と布石を打ってるなあ。

 とはいえ、まだ光秀本人は信長から評価され、優遇されているようです。このあと、よく言われる「信長が光秀を理不尽に苛めるエピソード」が入ってくるのでしょうか。

 今回の大河は、多分、それはやんないんじゃないかな、と思います。というのは、歴史的にいえば、 「信長が光秀をいじめた」というのは、「吉良上野介が浅野内匠頭をいじめた」というのと同じくらい、「根拠のない俗説」だからですです。

 本能寺の変の原因、光秀の動機は、不明です。浅野がどうして吉良に切りかかったのかという動機が不明なのと同じです。こういうとき、人は、なにか合理的な理由を探そうとします。これだけの大事件が「原因不明」では落ち着かない、きもち悪いからです。

 こういうとき、現代の一部歴史好きは「誰かの陰謀に違いない」「黒幕がいるに違いない」というようなことを言って楽しむわけですが、昔のひとは、そんな面倒なことは考えません。「きっと、いじめてたんだ。あんだけの仕返しをされたんだから、よっぽどひどいいじめをしてたんだ、きっとそうだ」というふうに考えるんです。そういう憶測でいろんな「お話」が創作され、それが読本になり芝居になり、まるで事実のように広まっていくんです。

 江戸期を通じて、信長が「異常性格者」であるというイメージは、ある意味、意図的に増幅されたといっていいです。理由は簡単、最終的に徳川が天下を取ったことを正当化するためです。

儒教の考え方では、徳を失った王朝は滅びます。「信長も、秀吉も、徳がなかったから、天下を維持できなかったんだ、家康公には徳があったから、最後に天下が巡ってきたんだ」ということです。

だから、信長や秀吉は「徳がない人間」であってもらわないと、困るわけです。困るって誰が。江戸幕府が、ということですね。
 だから、信長や秀吉の「異常性格」を表すエピソードは、誇張され、歪曲され、ときにはでっちあげられて、世間に広められることになります。

「信長の光秀いじめ」は、その最たるものです。なんか、「いい大人がそんなことするかなあ」というイジメ話がたくさん伝わってますが。そういう、世間のひとがドラマや小説で読んで知っている「信長が光秀をいじめたエピソード」の大半は、実はほとんど江戸時代の創作を孫引きしてるだけなんです。

 信長の「濡れ衣」の最たるものは、「信康切腹事件 」です。これは実は純粋に徳川家の内部分裂事件であり、不平家臣団によるクーデターに担がれた信康を切腹させたのは、家康本人の意志です。

ところが、家康に「子殺し」の汚名を着せたくない徳川家は、「あれは信長の命令で、泣く泣くやらされたんだ」という大ウソをでっちあげたのです。「あの猜疑心が強くて残酷な信長だもん、こっちは被害者だよ」。

こういう「物語」を維持するためにも、信長は異常性格者であってくれなければ困るのです。
 本能寺の変の原因は、「日本のために、既存のものはすべてぶっ壊せ」という信長と、「日本のために、古きよきものは守らなきゃいけない」という光秀の国家観の違い、いわば、国を治めようとする人間の「志」の問題です。それを「いじめた、いじめられた」というような中学生の教室みたいな卑小な理由に貶めることで、信長や光秀の「志」を貶め、信長が日本に果たした業績までを過小評価させようとする。結果的に「徳川幕府」が正統化され、立派に見える。

それが「信長の、光秀いじめ」というお話の、真相です。徳川幕府のプロパガンダに、我々がつきあう必要はありません。


大河「軍師官兵衛」では、荒木村重が謀反にいたる「心理描写」を、丁寧に描いていました。同様に、光秀の無言の表情を積み重ねることで、光秀が信長に不安感を抱いていく過程を、きっちり描いています。それに、信長のほうはまったく気づいていないのが、ミソです。信長が「いじめ行為」を能動的にやったら、本能寺のときに意外性がなくなってしまいます。それは、つまんないんです。

だから、ありがちな「いじめエピソード」は、描かないほうがいいです。