「江戸幕府」には庶民の味方もいたけど、「鎌倉幕府」は、そもそもそういうものではない? | えいいちのはなしANNEX

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 鎌倉幕府、というのは、あとからついた歴史用語であり、当の本人たちは当時そんな言い方をしていなかった、そうです。この話は以前にも書きました。

 江戸幕府は、この鎌倉政権の後継である、ということを強調するため、「征夷大将軍」の肩書きを貰い「幕府」と名乗ったわけです。が、同じ幕府でも、江戸幕府と鎌倉幕府は、ぜんぜん性格が違う政権と言っていいでしょう。

 思い切り雑にたとえれば、江戸幕府は「日本政府」ですが、鎌倉幕府はいいとこ「経団連」にすぎません。


 江戸幕府には「民政」というものがありました。つまり、支配階級だけでなく、日本国民全部を対象にしていたということです。

 たとえば江戸町奉行というのは、裁判官、警察署長、消防所長、あらゆる仕事をこなしますが、ひっくるめていえば民生全般を統括する政治家です。

 時代劇の三大ヒーローといえば、大岡越前と遠山の金さんと水戸黄門、このうち二人までが江戸町奉行です。庶民にいちばん近い人物であったからでしょう。

 大岡さんと遠山さんは、時代も違いますけど、同じ名奉行といっても、業績の性格が違います。

 大岡越前守は、将軍吉宗の「享保の改革」の急先鋒として活躍したひとです。まあ、それで庶民に憎まれなかったのだから、かなりいい時代だったのでしょう。
 遠山左衛門尉は、老中水野忠邦の「天保の改革」のさなかに登用された人ですが、江戸庶民を締め付けようという水野の政策をのらりくらりとかわしながら、庶民を守った奉行でした(だから人気があります)。
遠山と同時期に南町奉行だった鳥居甲斐守(耀蔵)は、どっちかというと大岡越前タイプの、水野の懐刀的スタンスの人物でしたが、遠山と鳥居は水面下で微妙に対立していました。
 遠山さんとと大岡さんは、政治家としてのスタンスがかなり違います。もし同時期に生きていれば、たぶん、ものすごくソリが合わなかったものと思われます。深刻に対立していたか、お互いわが道を行く、で済んでいたか、そのへんはわかりませんけど。

 まあ、そういうわけで、江戸幕府は少なくとも「町人」に向き合う部署があったわけです。政府なんだから当然です。

 しかし、鎌倉幕府というのは、そもそも、「関東武士の権益を守るために誕生した政権」にすぎません。
 武士というのは、ひらたくいえば農場経営者のことです。彼等はこれまで、自分が切り開き自分が耕した農地から収穫を得ても、その収益の大半を、形式上の主人である京都の貴族に上納し、ヘイコラしなければならない、という、理不尽な立場に置かれていました。冗談ではない、と関東武士たちが連合して、力づくで作り上げた政権が幕府というものです。
 鎌倉時代には町人というのはいません。それをいうなら農民ですが。幕府はもともと領主である武士たちの連合体なんですから、農民(庶民)の権利だの福祉だのを、武士の利益より優先して考えるはずがありません。
 幕府は、武士たちを「地頭」に任命することで、事実上、その土地の所有権を認定していきます。ようやく名実ともに自分の土地になったと思えば、そこで働く農民に対して、ますます働け働けとプレッシャーをかけるようになるのも、まあ当然です。農民をいじめて締め上げるような地頭も多かったようで、「泣く子と地頭には勝てない」というのもそこからきてるわけですけど。

 これに対して、鎌倉は、口出しすることはありません。「そういうことをしていい権利」を得るために、武士たちは頑張って戦争して、勝ったんですから。

 鎌倉幕府ができても、庶民の暮らしはよくなったわけでない、かもしれない。これはしょうがないです。

 同じ「幕府」という言葉がついているからといって、江戸幕府のモデルを鎌倉に当てはめて考えるとことはできない、ということでしょう。