吉宗が将軍になった「紀伊対尾張直接対決」の裏に、実は歴とした「前将軍の弟」が生きていた | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 スワローズ、一点差で勝ちました。館山、よく投げました。畠山、犠打二本で二打点です。今日は、いい勝ち方です。

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 ところで。松平清武という人がいます。六代将軍家宣の弟です。
 甲府家(御三家に次ぐ、将軍家の分家)の次男です。

 幼いときに家臣の越智家の家督を継ぎました。家光の孫の一人なのに、ずいぶんな扱いだな、と思われそうですが、この時点では「将軍家のスペアの家の、さらに次男」ですから、これが妥当な扱いです。
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兄が将軍になったことで、甲府家は消滅します。このとき「清武を呼び戻そう」という話は、一切出てません。甲府家というのは潜在的将軍候補を養っておくためにあるので、その役目がなくなれば消えていいのです。
清武は、松平姓を貰って、館林二万四千石の領主となります。ちなみに館林は、五代将軍綱吉のもとの領地で、綱吉が将軍になったときに同じく「収公」されたところです。

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清武は、のちに五万四千石まで加増されます。ところがのちに、家宣の子・家継が危篤になり、将軍の跡継ぎがいない、という事態になります。
このとき、家宣の正室だった天英院は「清武を呼び戻そう」としたと言われますが、全く議題にならず、あっさりと却下されたようです。「すでに他家に入って、現に藩主をやっている人だから」です。で、天英院もあっさり吉宗支持に乗り換えて、八代将軍決定、となるわけです。
もちろん、すでに相当な歳であったことも理由ですが、それ言ったら吉宗だって立派な大人です。やはり、「御三家」と「家来の家に養子」では、ポジションがまったく違うということです。清武本人にも、将軍候補になろうという気は毛頭なかったらしいです。

なんでこのひとの話を突然はじめたのか。、それはですね。明日に続きます。