親友に強く勧められ、2024年2月22日、劇場鑑賞しました。
予告編をみるとホラー・テイストだったので、ホラーを苦手とする私は劇場鑑賞を敢行するかどうか悩んだのですが、実際に鑑賞した今となっては、劇場で鑑賞してよかった! という感想しかありません。
これはまさに劇場で観るべき作品。
画はもとより、構成も脚本も情念も実に丁寧に練り上げられています。
序盤から、これがアニメーションであることを忘れさせる、実写映画さながらの臨場感でした。
●強いリアリティ
この物語のメイン部分は、昭和31年の日本を舞台として展開します。
終戦からわずか10年ほど経ったばかりの、この時代設定は、私が幼い頃に観た、石坂浩二主演の映画「犬神家の一族」の雰囲気を強く感じさせるものでした。
犬神家も、戦時中、ケシの実から抽出される麻薬を軍部に売って富み栄え、財閥に発展したという設定ですから、「血液製剤M」で軍部とつながり肥え太る本作の龍賀一族を彷彿とさせますね。
当主の死により醜い遺産相続争いが起きるところもそっくりです。
本作では、龍賀家の当主・龍賀時貞(白鳥哲)の訃報を聞いて、主人公・水木(木内秀信)が龍賀家の本宅に「招かれざる客」として押しかけることが事件の端緒となります。
龍賀家の大広間に親戚一同が打ちそろい、唯一の部外者である水木が入室して畳の上を進むのを、誰もが黙って目の動きだけで追うシーンなど、あまりのリアルさにゾクゾクしました。
時貞の長男・龍賀時麿(飛田展男)の登場で、いよいよ狂気じみてきます。
時麿は平安時代の公家のように白塗り、お歯黒で、遺言状の開示で掴み合いの大騒動になっている親族の前で号泣するなど、常軌を逸した言動を見せます。
この辺りの異様さは、「犬神家の一族」で真っ白いゴムマスクを被った姿で佐清が登場するシーンを思い起こさせました。
もはやこの席に金田一がいないのが不思議なくらいの雰囲気ですが、思えば、金田一の役割はのちに登場する鬼太郎の父(関俊彦)が担うところですかね!
水木と組んで、「二人金田一」ってところでしょうか!
一連の横溝正史シリーズの映画には、ほかにも「八つ墓村」など有名な作品がありますね。
狭いコミュニティに閉じ込められた状態で生々しい欲望から血の惨劇が起こるという、「本当に怖いのは人でした」みたいなこれらの作品が、幼い私に強烈な刻印を残したものですが、本作は久しぶりにその古傷を疼かせてくれました。
私はもう半世紀以上も生きてきて、戦後を引きずった昭和の雰囲気というものを現実に知っていますから、本作における「昭和」の表現がどれほどリアルであることか、驚きを禁じ得ません。
換気の悪いオフィスの事務室だろうが、長距離電車の車内だろうが、そこに咳の止まらない小さな子供がいるとしても、多くの人たちがごく自然に喫煙をしまくっていて、室内の空気が白く霞むほど。
外を歩けば当然のごとく歩き煙草。
そして、ポイ捨て。
踏み消しもしない。
お金持ちの家には葉巻。
金ぴかの重そうなライターで火を勧められる。
酒を飲んで打ち解け合うとき、自分が吸いつけた煙草を相手に勧める。
あー、昭和あるある!
いやな方の昭和あるある!
なんか色々なところがルーズで、不衛生で、テキトーで、生き延びる者だけ生きていけっていう時代。
父親が平気で自分の娘を、本人のいないところで、「君にやる」と約束するなど、家父長制の思想が男女ともに染みついていて、女性が働いて自立するなどとんでもないという雰囲気もあって、通り一遍でない細やかな演出が、1970年代に制作された実写の邦画と比べても遜色ない臨場感を醸し出しているのだと思います。
まず、作品全体が放つこの吸引力は特筆しなくてはならないところでしょう。
●哭倉村(なぐらむら)
タイトルにも書きましたが、私はネタバレ前提で作文しますから、本作品を未だ鑑賞していらっしゃらない方は、ここから先をお読みにならないようお願い申し上げます。
さて。
本作は、廃刊間近の雑誌記者・山田(松風雅也)が、最後に何とか特ダネを載せようと、廃村となった哭倉村(なぐらむら)を訪れるところから始まります。
哭倉村。
このネーミングセンスよ…。
目にした瞬間にいやな予感しか覚えないんだが…。
鑑賞後に思えば、「穴蔵」(あなぐら)が地名の由来だろうなあ…。
この引きずり込まれるような恐怖感よ…。
哭倉トンネルに入る前に、山田の前に鬼太郎(沢城みゆき)とねこ娘(庄司宇芽香)が現れて警告を発しますが、山田は聴かずに進んでいきます。
トンネルとか橋といったものは、古来、彼岸(ひがん)と此岸(しがん)を分かつ境界と捉えられています。
トンネルを潜ることは「胎内くぐり」と同義にも捉えられることから、人の世から人の世ならぬ世界に移動していく儀式のようにも思えます。
いよいよトンネルを抜けて廃村となった哭倉村に足を踏み入れた山田は、自分で望んでやって来たくせに、ビクビクしています。
錆び付いた武者人形の立てた音に驚いた山田は、窪みを踏み抜いて草木に隠されていた階段を転がり落ちます。
地下には思いの外広い空間があり、懐中電灯で照らし出すと、病院にあるようなベッドや点滴の管がありますが、さらに向こうを照らすと、赤い鳥居が見えます。
今から70年前に廃村となった小村なのに、地下に病院施設があったのか?
しかし、病院なのになぜ鳥居が?
私はこの段階で、強い違和感を覚えますが、本作鑑賞後、この冒頭シーンで目にしたものについて全て合点がいきました。
「タスケテー…。」
と、か細い声を上げながら落ちていった黄土色の鞠のような物の正体もね…。
伏線を張り巡らしたところで、いよいよ物語は70年前にこの村で何があったのかを見せ始めます。
●主人公・水木
昭和31年。
東京の帝国血液銀行に勤めるサラリーマンの水木は、日本の政財界に大きな影響を与える財閥の一つたる龍賀家の当主が亡くなったという報を聞きつけ、すぐに跡目争いが起きるであろうことを見越して、龍賀一族の本家がある哭倉村に向かうことを自ら志願します。
水木は先の大戦中、玉砕を命じられて自殺同然の突撃を行った上で生き延びたサバイバーで、左目と左胸に消えない火傷の跡が残っています。
このときの過酷な体験から、「力のない者は食い物にされるだけ」という念を強く持っており、物語のなかでも、初めは鬼太郎の父と交わした約束を平気で破ったり、龍賀製薬の社長・龍賀克典(山路和弘)から血液製剤を巡る取り引きを持ち掛けられれば欲得ずくでそれに乗ったりと、エゴイスティックな面を見せます。
お人好しだから馬鹿を見るのだ……と、世の中を斜めに見ているところがありますが、それは本来の彼の性質ではない。
だから、本当に人が殺されそうになったり、心の友である「相棒」が窮地に陥ったりしたときは、我が身も顧みず助けずにはいられない。
見殺しにはできない。
これが水木の本質です。
英雄でなくとも、スーパーヒーローでなくとも、この美質が極限の状態で運命を塗り替えていきます。
ラストの重要な局面では、龍賀時貞から、会社を二つか三つ任せてやろう、美酒も美女も思いのまま、贅沢三昧の人生を約束しようと持ち掛けられます。
しかし、まるで悪い夢から覚めたように、
「あんた、つまらない奴だな。」
と呟いて、迷わず鬼太郎の父を救う方を選択します。
このとき、時貞が持つ呪具を破壊すれば、日本国自体が呪われるかも知れないリスクがあったにも関わらず、です。
自分も世界も捨てて、友を救う方を選択する。
この強く熱い情熱こそが、水木の魂であったのでしょう。
もとより、水木には本質が見えていたのです。
彼には、普通の人の目には見えないものが、見えていたのですから…。
●龍賀家キモすぎ問題
70年前も、タクシーは哭倉トンネルの手前までしか行ってくれないので、水木は自分の足で歩いてこのトンネルを抜けます。
ここから龍賀家の屋敷まで、結構な尺を取って村の景色を延々と見せます。
耳を塞がれるほどの蝉時雨。
広々とした田畑。
見えたかと思うと、屈んですぐ見えなくなる村人の影。
青く澄んだ空。
上空で鳴く鳶の声。
到底、アニメーションの世界とは思えない。
三次元を見るかのような臨場感。
4Dでもないのに、日に当たる草や土の匂いまで漂ってきそう。
村に入って初めに水木が出会うのは、龍賀沙代(種﨑敦美)です。
彼女は亡くなった龍賀時貞の孫娘で、龍賀家に入り婿で入った龍賀製薬の社長・龍賀克典の娘でもあります。
ここで渡を付けておくのは好都合とばかりに、水木は、鼻緒が切れて困っていた彼女を助けます。
このとき、村長の息子・長田時弥(小林由美子)も現れます。
この素直な少年は、よそ者を警戒しつつも、水木が東京から来たと知ると、東京の話を聞きたがります。
沙代と時弥は、相互に母親同士が姉妹という間柄なので母方の従姉弟(いとこ)という関係性なのですが、二人並ぶと、いとこではなくて姉弟のようです。
左右対称で、同じところに目元のほくろがあって。
本作鑑賞後には、実際、いとこ同士ではなくて、姉弟だったのでは…と、いやな疑念も湧いてきます。
自分の孫娘に牙を剥く時貞ですから、実の娘たちに手を出していないと、どうして言えましょう。
村長の長田幻治にしても、入り婿の龍賀克典にしても、お家のため、ひいては自己の栄華のためなら妻がどのような目に遭おうと気にしない人のように見えます。
いや、もう、…
人間関係ドロッドロですわ!
龍賀家キモッ!
この家で水木滞在中に起こる連続殺人事件の犯人は、結局、怨念から生まれる妖怪・狂骨の依り代となった沙代だったことが判明します。
依り代となった人間がいるという話が出たときから、龍賀家にいながら被害者側にいる人間として、消去法で時貞の次男・龍賀孝三(中井和哉)か沙代のどちらかだろうと考えていたところ、長田庚子(釘宮理恵)が首を切られて殺された段階で、沙代の方だと確信が持てました。
殺害現場に、最後までいたのは沙代ですからね。
私をここから連れ出して東京に連れて行ってくださいと沙代が水木に頼み込むシーンでも、洋風の瀟洒なテラスに凜として佇む沙代の背後に落日があり、東京に連れていくと決まると、日が落ちてスッと青白く暗くなる。
この演出が、不吉を予感させて実に秀逸です。
血液製剤の原料が鬼太郎たち幽霊族の血液であることも、比較的、早く予想がつきました。
本作は序盤から伏線を多く埋め込んでいるので、観客に対して懸命な謎解きを強いるものではありません。
そういうことで、あっと驚かせたいわけではないと思います。
どうなるか展開が読めているのに、悲劇が止められない。
でも、止めたい。
鑑賞中、そのような切迫感に胸を締め付けられる思いでした。
終盤、追い詰められた沙代が怨念を爆発させ、龍賀家の犠牲となった村人の怨念を吸収した 狂骨 が荒れ狂い、鬼太郎の父を捕えた裏鬼道衆(外法を使う妖怪狩り)を相手に無双するシーンは圧倒的な迫力です。
沙代の長く長く振り絞られる悲鳴、本当に震えるほどの迫真の演技。
典型的な大和撫子のような、控えめな女性として描かれてきた沙代が、
「私は私として見られたことはなかった、龍賀家の血としてしか見られなかった!」
と血を吐くように訴えかけるこのシーン、声優の種﨑敦美さんの渾身の演技にもはや言葉もありません。
龍賀孝三も、実に憐れでした。
彼は、初めから正気を失った人として登場します。
しかし、狂った彼が描き続けるスケッチのなかに、鬼太郎の父が探し続ける彼の妻の姿があったことから、いよいよ小島の「穴蔵」が怪しいと、水木たちは核心に迫っていくわけです。
孝三は、この美しい女性を救おうとしたのでした。
あの歪んだ父親の息子として生まれながら、善良な人だったのです。
しかし、幽霊族を苦しめながらその幽霊族の怨念を逆手に取って呪法を使う裏鬼道衆の反撃にあって、正気を失ってしまったのでした。
「記憶を失うくらいで済んだのは、龍賀の血を持つ者だからか」みたいなことを長田が言っていましたが、私は違うと思います。
幽霊族の女性を救おうとした、その気持ちがどこかで伝わっていたのではないでしょうか。
結局、村全体が狂骨に襲われるときに孝三も車にはねられて命を落としますが、その魂は昇天したことと信じます。
●作品のメッセージ
最大に憐れだったのは、時弥でしたね。
70年後、鬼太郎に出会い、時弥が昇天するシーンでは涙が出ました。
劇場内のそこかしこで、すすり泣きの気配がありました。
時弥は、本作のテーマを担う重要キャラクターだと思います。
鬼太郎の父が牢に閉じ込められていた夜、水木が彼に語った日本の未来、鬼太郎の父が彼に語った「世の中は変化を遂げなくてはならない、しかし変化を嫌うものは必ずいてせめぎ合う、その積み重ねで歴史が織られていく」ということ、これはまさに未来を担う子供たち、若者たちへのメッセージだと思うのです。
原作者の水木しげる先生は、生涯を通して反戦のメッセージを伝え続けた方で、本作の根底にも、当然その強いメッセージが貫かれています。
支配者の階層と被支配者の階層の対立、貧しき者は富める者に踏みにじられ続けるという、厳しい現実を知らしめるものです。
水木は戦場で地獄を味わって、辛くも生還したサバイバーですが、戦争を命じた連中は何の痛みもなく軍需品を着服して肥え太る。
少数民族である幽霊族は、血液製剤の原料にされるために龍賀家に狩られ、まさに「民族浄化」の犠牲となった幽霊族は絶滅の危機に瀕し、鬼太郎は最後の1人となる。
「妖怪」とか「幽霊族」といった要素でフィクションのオブラートに包んでいるものの、こういった状況そのものは現在でも世界の至るところで見られる現実です。
今まさに、世界的にみても富裕層と貧困層の二極化が進んでいて、中間層は薄くなり、支配層が被支配層を飼い慣らそうとしているように感じます。
本作では、鬼太郎の父と水木が、鬼太郎の母を探し求めて血の色が滲む地下の湖を這い回るのを、酒盃片手に打ち眺めて、
「おお、人間ああはなりたくないものよ。」
と、下卑た笑いとともに時貞が呟くシーンがありますが、ふとした呟きに人の本心がこぼれ出るものだと考えるなら、時貞は、支配する側から降りたら支配されてしまう、踏みにじらなければ踏みにじられる、だからこそ「ああはなりたくない」という、強い恐怖を潜在意識に抱えていたのかも知れませんね。
道を誤らせるのは、恐怖です。
恐怖ゆえに狂乱したり、人の道を踏み外したりしてしまうのだとしたら――、
鬼太郎の父の言うように、「片方の目を隠しているくらいでちょうどいい。」のかも、知れませんね。
●作画のすばらしさ
最後に、作画のすばらしさも追記しておきたい。
哭倉村の風景は、どこをとってもリアル。
昭和の小村の臨場感がある。
閉塞感に至るまで、いやになるほどリアル。
裏鬼道衆との戦いのシーン。
いきなり背後に立たれていたり、いなかったはずの場所に忽然と現れたりする不気味な雰囲気がよい。
鬼太郎の父との戦いでの動きもよかった。
鬼太郎の父が戦うシーンはどれも秀逸。
欠点が見当たらない。
クライマックスの血桜のシーン。
桜花がピンクではなく血の色なので、この先の展開は瞬時に読めたが、ともかく絶望的なまでに美しかった。
狂骨の動き。
本作の最大の妖怪となる狂骨だが、妖怪絵巻からそのまま抜け出したかのような画が、動くこと動くこと!
外側に取りついていたはずなのに、次々に骨が外れて組み、外れて組み、と繰り返し、いつの間にか骨の内部に取り込まれているなど、本作最大の敵にふさわしい作画。
画は、最初から最後まで一部の隙もなし。
本当にすばらしかった。
――でも、怖かった。
●参考記事
公式サイト:鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎
KOBECCO
水木しげる生誕100周年記念 知られざる 水木しげる|vol.9