愛すべき映画たちのメソッド☆

愛すべき映画たちのメソッド☆

映画感想家・心理カウンセラー・芸術家のNatsukiです☆

『映画にどんなに素晴らしいメッセージが含まれていようと
「娯楽性」がなければ作品としては失敗だ』/レオナルド・ディカプリオ

1890年代、今や映画の父と呼ばれる《リュミエール兄弟》により公開された一本のフィルム『汽車の到着』。

汽車が観客席へ向かって走ってくるだけの、音も色も無い、たった数分間の映像。

当時の観客はみな驚き、席から飛び上がり、劇場から逃げ出す者までいた。

これが「映画の原点」だとすれば、やはり映画の本質は《娯楽》という事になる。

暗闇の小屋でスクリーンに映し出される《非現実的な映像》。

そんな観たことも無い映像の数々に大勢の観客が共に笑い、共に泣き、共に歓喜する。

映画が誕生して100年以上たった現在まで、様々な素晴らしい作品が数多く生み出されてきました。

日々生まれる《愛すべき映画たち》は、今日も世界のどこかで上映されています・・・。


『芸術とは、我々に真実を気づかせてくれる嘘である。』/ピカソ

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【ネタバレあり】


基本的にネガティブな感想は書かないと決めているが、本作は久々に「映画愛の欠如」を目の当たりにし、映画(と映画を創造する人達)を長年リスペクトしてきた者として、怒りにも似た感情と動揺と驚きを強く感じたので、個人的な記録の意味も込めて・・・。

本作のポイントは「脚本」に尽きる。

この(10年に1本レベルの)問題だらけの脚本を、そのまま撮った(もしくは加筆修正した?)中田秀夫監督のセンスにも疑問が残るが、特に『貞子3D2(この作品も酷評が多いが)』の杉原憲明さんの脚本が、まず(貞子の井戸の様に)穴だらけで、しかもインパクトも新しさも無い。

ストーリー展開が終始「場当たり的」で、何かの物事に直面した時、事前に準備していた方法で対処したり、綿密な計画を立てた上での言動だったりが皆無(にしか見えない)で、登場人物みんながその時その時の思いつき(軽いノリ)だけで対応している様に見える。

そういう意味で、目の離せない99分。

もちろん巧みな伏線と回収など夢のまた夢と言いたくなるほど全く無い。

ここまで来るとストーリー展開だけではなく、キャスト・監督・スタッフなど製作者側も「ちょうど良い場所にテレビが置いてあるのでここで貞子を出したらどうですか?」「なるほど良いね、ここらで1回出そうか」などというやりとりを現場でやりながら撮影しているのではないかと(勝手に)想像してしまい「その場の思いつき」だけで作っている様にも見えてしまう。

もしくは、完成した脚本自体が無いまま中田監督1人の「脳内構想」を頼りに順撮りでゲリラ的に撮影したのではないか・・・とまで想像してしまう。

ついでに、(あれば良いというものでもないが)登場人物の成長も無ければ、「ヒャッホー!」と言いたくなるクライマックスでのカタルシスも全く無い。

鈴木光司の小説集『バースデイ』の一編「レモンハート」を映画化した『リング0/バースデイ』の様に、貞子の幼少期から青春期を今回は違う角度から描くとか(それはそれで二番煎じでブーイングだろうが)、もしくは思いっきり泣ける展開とか、アトラクションの様に貞子が怒涛の出現・恐怖の乱れ打ちとか、しっかりとした起承転結で伏線(後付でもシリーズ過去作の分まで)を回収しまくるとか、SWシリーズやMCUシリーズ的な気持ちの良いファンサービス全開の展開など、どれかに振り切れていればまだ良かったと思われる。

主人公やそれらに絡む人物の言動、メインの少女と意地悪をする病院の子供たちの「現代の子がやるだろうか?」と思える言動(昭和以来に聞いた名無しの権兵衛さん&円になり周りながら野次る)や、あらゆる心理描写が薄っぺら過ぎる(無い)点にも驚かされる。

究極は、離島の洞窟(祠)へ弟を探しに行く場面。

「行方不明の弟が貞子の生い立ちに関係する離島の洞窟で生きていると(大した根拠もなく)姉が確信→相棒の男性と船で離島へ→洞窟の入口へ着くも入口は落石で塞がれており、たまたま通りかかった謎の不気味なお婆さんとたまたま通りかかった警官に止められる→事情を聞いた警官たちはみんなで(なぜか洞窟以外の周辺だけを)捜索するも(案の定)見つからず→(夜になれば満潮で洞窟が浸水し弟が死ぬという設定なのに)夕方いったん姉と相棒は島の旅館へ引き返す→数時間後、夜になりやはり(弟を助けなければと急に思いつき)2人で洞窟へ向かう→入口が落石で塞がれているが貞子の手に引き込まれ姉だけが洞窟内へ→怯えた弟を発見し保護→貞子が現れ姉が連れて行かれそうになるも弟が身代わりとなり亡くなる(ネットで話題の貞子との綱引き場面)→岩を退けて入ったのであろう相棒の男性は特に活躍せず→遠く離れた病院で昏睡状態だった少女の霊体が洞窟内に現れ主人公が抱きしめる→病院の少女が意識を取り戻し貞子の呪縛から解放される(ように見える)→後日、弟を失ったショック(と貞子への恐怖?)で病室の床に座り込み震えている主人公→唐突に病室に現れる貞子→恐怖で叫ぶ主人公のアップ(そこで画面停止&モノクロに)→エンドロール」

このクライマックスは意味不明な要素が(ここに書いた以上に)これでもかと詰め込まれているため、本作屈指の名場面であり最大の見所となっている。

間違いなく(色んな意味で)映画史に刻まれるであろう。

全ての場面で登場人物全員の行動原理や意思が「ご都合主義」で行き当たりばったりで、みんな目先の事しか考えずプロレスラー並に「パワープレイ」だけで行動している(いや、まだプロレスの方が起承転結や観客を盛り上げる演出や構成がある)ようにしか見えない。

本作の決定的なサプライズは、これらの問題が全て「貞子」自身にも当てはまるところ。

貞子の呪いによって誰が死んで、誰が死なないのか、何人かの死を免れた人が結局は後から死ぬが、何故あの時は死ななかったのか。

貞子は何を恨んでいるのか、なぜ現代に蘇ったのか、誰をどうしたいのか。

そもそも貞子は何がしたいのか(したかったのか)・・・全てが判らない。

全編その様な掴みどころの無いルール無き世界が、ぐるぐると「らせん」の様に延々と「ループ」されるので、こちらは理解に苦しみながら鑑賞する事になる。

「YouTuberあるある」的なセリフや、割とリアルなYouTube的な動画(○○をやってみた等)も意外と時間を割いて描かれる点は良いのだが、ある主要人物のYouTuber的な要素も全く機能してなく、実際のYouTuberが特別出演しているだけなのも非常に勿体ない。

『リング』の「呪いのビデオ」の現代アップデート版みたいに、動画サイトに得体の知れない恐ろしい動画がアップされていき、それを気軽に見て拡散する若者たちが次々に呪われていくなど、そこから怨念が世界規模で拡散していく展開にすれば、(滅びゆく世界の描写など無くても)とても現代的で恐ろしい「終末感」を観客それぞれが想像できて良いと思うのだが、そんな気配は(もうお判りだろうが)最後まで訪れない。

佐藤仁美さん演じる過去作で生き残った女性が再び(メインで)登場するアイデアは素晴らしく、1作目から観ているファンとしては期待も上がる(私が劇場へ足を運んだ理由の1つ)が、結局はそれが活かされる事も伏線が回収される事も(もうお判りだろうが)皆無で終わる。

海外のホラー映画では定番だが、本作の良いアイデア「生き残りの再登場」が特に何の意味も無い「(軽い)怖がらせ要員」に過ぎなかった点も、ここまで期待の裏切りが続くと「だろうね」とさえ思ってしまうが、一応ガッカリさせられる。

『リング』や『リング2』と繋がっている世界観なのに、ストーリー展開でそれが上手く活かされる事が全く無い点には・・・悪意すら感じてしまう。

ホラー映画というジャンルは、とても怖いが少し見てみたいという矛盾する「怖いもの見たさ」の心理でみな鑑賞している。

だが本作は途中から「貞子、早く、もっと、とにかく出てきてくれ」とさえ思ってしまう説明しようの無い感情の逆転現象が起きる。

全体的に、狭い世界で、何人かが、少し怖い体験をした・・・というシリーズ屈指のスケールダウンになってしまっている。

思わず「誰?」と言いたくなる幽霊(貞子以外の)が何の脈絡もなく登場する場面が2回あるが、ただただその場その場で「観客を驚かす」ことだけを目的としている様にしか見えないし、しかも在り来りのビジュアル・既視感のある演出・これぞJホラーという嫌悪感な音楽ばかりで、全くと言って良いほど怖くない点も致命的。

しかも、そういう「驚かされる場面」も少な過ぎる。

中田監督は、平成の30年間くらい古今東西のホラー映画を全く観ていないのだろうか(と意地の悪い事を言いたくもなる)。

画期的な恐怖演出のセンスが際立っていた『女優霊』や『リング』や『仄暗い水の底から』、それらを創造した中田監督はJホラーの神的な存在だった。

だが、20年前の恐怖の再来という予感を抱かせてくれた原点回帰的な本作『貞子』は、控えめに言っても、高校生が企画・脚本・撮影した自主制作映画にしか見えないのが不思議であり残念でならない。

中田秀夫監督が映画作りをまだ何も知らなかった10代の頃に原点回帰した・・・という意味だったのだろうか。